私の手が、好きですか?
いつの間にかできていた小さな切り傷みたいな恋に悩まされた春休みだった。
いったん気がついてしまえば、気になる。
「木谷、マニキュア塗ってるだろ」
人もまばらな午前の美術室に、染み付いた絵の具の匂いが薄く充満している。
「絵の具です」
「すぐバレる嘘はつくな」
「落とせって言われても、除光液持って来てないです」
そういう先回りはやめろ、とさらに叱られて喜んでいる私はきっと分かりやすくコドモだ。
終業式の日、
「俺、前から思ってたんだけど、木谷の手ってクリームパンに似てね?」
隣の席の男子に笑われて、
「はあ? 似てないし!」
と普通に言い返した後で落ち込んだ。
私の手の甲には、えくぼがある。指の付け根あたりが、へこんでいる。
それから指も短くて肉厚。
骨の存在感が薄い私の手は、他人に笑われてしまうくらい、美しくない。
その日の部活中、元気がないことを先生に見破られて「クリームパン」のことを話した。
先生は、珍しく真面目な声で、
「木谷の手はギャップだよ。個性的でいいと思うよ。いつか、木谷の手を好きだと言う奴がちゃんと現れるから」
安心しろ、と諭してくれた。
美術室の乱雑な匂いと色彩の中で、先生の声も表情も、やけにはっきりと私の脳まで届いた。
その場面を何度となく思い出して、眠る前、ベッドを抜け出し、いちばん好きな本の裏表紙の裏に小さく今日の日付と先生の言葉を書きつけた。
すると、すぐそばで、焼きあがりのパンの甘い香りが立ち上った。
パンなんて、この部屋の中にないのに。匂いの元を探した私は、それが自分の体から発せられていることに気が付く。
手、だ。
親指と人差し指の間あたりから、甘い香りが上がってきている。
混乱しながら眠った。
翌朝も、焼きたてのパンの匂いで目覚めた。
急いで家族のところへ行って、嗅いでもらう。
でも誰ひとり、パンの匂いがするとは言わない。
自分にしかわからない香りを漂わせて、春休みの学校へ向かった。
美術室に入ると、すでに後輩がふたり来ていた。
「おはよう。ねえ、先生って見かけた?」
「おはようございます。たぶん準備室に居ますよ」
準備室のドアを開けると、珈琲の香りがした。
その奥で、先生は机に突っ伏して眠っている。
緩いなあ、と思いながら顔が見えそうな方へ行ってしゃがむと、コドモみたいな寝顔があった。
鼻のあたりにそっと手をかざしてみる。
「はい。クリームパンですよ」
ささやいて、そのまま寝顔を見つめていると、先生は幸せそうに微笑んでから、かふ、と私の人差し指に口をつけた。
衝撃、だった。生まれて初めての。
机の上には、セットされたタイマー。
3分27、26……先生が目を覚ますまでの時間。
知らなかった感情を抱えて、私はそこから動けずにいる。
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