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白鳥静香先生のノートより モンテカルロ・ノート 8 人間の定義 ものを知るということ

白鳥静香先生のノートより




モンテカルロ・ノート 8 人間の定義 ものを知るということ







学問はそれぞれ人間というものの定義を持っています。



政治学なら政治学の、

経済学なら経済学の、

生物学や医学なら生物学や医学の、

人間という存在に対する定義を持っています。




そして、その前提の上に学問をはじめます。



でも、その定義が人間という存在について

充分なものであるかといえば、

必ずしもそうではないと思うのです。








たとえば、


人間は社会的な存在であるという考えもあれば、

人間は社会から自由な個人であるという考えもあります。


経済学のように合理的な存在であるという定義もあれば、

心理学のように感情的な非合理な存在であるという定義もあります。



法律学では権利の主体として人間を定義しています。



また、生物学や医学のように、

肉体が人間、

遺伝子の一定の配列が人間であるという定義もあれば、



心や精神、あるいは、

宗教のように魂こそが人間であるという定義もあるでしょう。







このように人間というものについて、人によって、学問によって

いろいろな

イメージや定義がありますが、


どの定義が一番正しいのでしょうか?

私たちは、一体どの定義をとればよいのでしょうか?







少し考えてみると、

すべての定義が不充分であるということが分かると思います。



生物学や医学の人間の定義は洗練されていますが、

政治学や経済学的にものを考えたいとき、
あるいは小説を書くようなときはほとんど役に立たないでしょう。



逆に、映画監督や、恋愛小説を書くような人の人間の定義は
それもひとつの現実ですが、

自然科学的な学問をしたいときには役に立たないでしょう。



すべての定義が一面的であるのです。







現実を言葉で表現すること、

つまり、「知る」ということはそのようなことなのでは

ないでしょうか?



それは、

実際の街を写真に撮るようなものです。


写真は3次元を2次元に次元を下げているので、

現実そのままであることは出来ません。


写真は現実の街の、

常にあるひとつの視点からの次元を下げた表現にしかならないのです。





では、それらの定義がなければよいかといえば、

そうはならないと思います。


ものを考えるには必ず足場となる定義が必要となってくるからです。




大切なことは、

それを現実そのままではなく、

あるひとつの目的に対してのみ作られた、


たとえば政治学なら政治学の、

生物学なら生物学の結果を出すための、

ひとつの仮の足場として使い分けることであるでしょう。








私たちの認識は常に一面的で、現実そのままではありません。

私たちの認識は現実よりも必ずひとつ次元が下がったものなのです。





そして、なにより、

人間という存在は、

ほかの多くの存在よりもなお、

私たちの認識を越えた存在であるのです。

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