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統合失調症を内側から崩す。当事者にしかできないこと。

私は統合失調症からの心のリハビリについてここ数年書き続けているが、それにはどんな意味があるかというと、私は統合失調症の当事者であり、当事者にしかわからない内側の苦しみがわかるので、わかる人にしかわからないことを書ける特権を持っている、医者には書けないことも書ける。医者は脳内物質が云々ということは詳しいが、それは外から見た現象に過ぎない。当事者は内側からこの病気の現象を見ている。
では、そんな内側がわかる当事者である私が文筆で何をしようとしているかというと、表題にもあるように、文筆でこの病を内側から崩したいと思っているのだ。
崩すとはどういうことか?
病気は治すもので崩すという表現はおかしいと言う人もいるだろう。しかし、私にはこの崩すという言葉のほうが治すという言葉よりしっくりくる気がする。治すというと、すりむけた膝の傷が治るとか、風邪が治るとか、そのようなイメージで考えやすい。しかし、統合失調症はすりむけた膝とは別物である。そのような意味として治るという言葉を使うならば、統合失調症は治らない病気であると思う。私は過去に統合失調症は治る病気だと書いてきたが、すりむけた膝が治るのと同じ意味でその言葉を使用したのではなかった。統合失調症になったら、おそらくその精神は過去の「健康」だった時には戻らない。治るということが戻るということならば、この病は治らない。しかし、治らないと言ったら希望がない。だから、私は統合失調症が治るというのは擦り傷や風邪が治るのとは違う意味で捉える。統合失調症から回復するのではない。統合失調症を通して人は変身するのだと思う。新しい自分になるのだと思う。それは薬を飲めば変身できるわけではない。もちろん薬も大事だが、長い間生きていく上で、どうしたら、心が晴れるかを実体験を元に考え続けることが重要だと思う。ようするに自分の思想を変身させることが、新しい自分になることだと思う。その作業は当事者にしかできない。誰かが助けてくれるのではない。自分で考え生きていき、自分を変えていくしかない。自分を変えるとは思想を変えるということだ。体は変わらないかも知れない、だが、思想は自由に変えることができる。しかし、まったくの別人になることはできない。突然、変身することもない。これは私の経験から言えることだが、まあ、歌の歌詞にもあるが、三歩進んで二歩下がるくらいな感じで徐々に変身していくものだと思う。突然変わろうとすると、よくある統合失調症の例のように、「私はキリストになった」とか言い出すかも知れない。私自身は仏教にかぶれていたが、「悟った」とか「これが悟りだ」とかいう経験は何度もしている。しかし、悟ったと思った後も必ず何歩も後退していて、やっぱり違った、ということになった。それでも徐々に変わってきた。文筆は書くという行為で自分の思想をまとめ、発展させることができると思う。つまり、この文章もそうだが、私は私自身のために書いているのかもしれない。もちろん読者に向けて書いているが、私の中に第一の読者がいて、彼に語りかけているのだろう。彼とは私だ。それを読んだ読者が、共感してくれたり、ヒントを得たりして読者自身の生き方にプラスになってくれたら、私は自分の思索に自信を持つことができ、さらに前に進める。こういう作業は、統合失調症を外から見ている医者にはできない。私のような当事者だからできると思う。当事者同士で語り合うことも、重要かも知れない。私が取っている手段は文筆だが、当事者が内側から統合失調症を崩す手段は他にもたくさんあるだろう。ただ、私は文筆を選んだ。それは自然な流れだった。パソコンに不慣れな私はホームページを作るとか、SNSなどを知らず、職場の同僚と話をしていたら、このnoteを教えてくれた。最初は、心のリハビリを考える会というのを立ち上げてそこで話された内容を発表する場所にしようと思っていたが、実行できず、いつのまにか自分の書きたいことを書く場所になってしまった。しかし、それが自然な流れだったかもしれない。というのは私は小説を書く人間だし、哲学書も読んできた経歴がある。文章ならばそれらを生かせるので私は水を得た魚のように自由に文筆をするようになった。「文筆」対「統合失調症」、うん、おもしろい。私が選んだのは文筆だが、人と話すことを選ぶ人もいる。旅をする人もいるだろう。いずれにしろ、目的は統合失調症を「治す」ことであり、それは変身である。新しい自分の発見である。統合失調症になってまず大事なことは前向きに生きることだ。急性期にある人も、わずかな希望でもいい、一本のわらにすがってもいい、その藁はじつは縄に繋がっていることが多いだろう、そして、それは太い綱になりその上を歩けるほどの太さになると信じて欲しい。
 
当事者だけが統合失調症という精神の中にできた固い城を内側から崩せる存在である。
変身するのは自分である。
医者は補助してくれるだけで主役は当事者である。なぜなら、統合失調症は当事者の中で起きた事件だからだ。よく、当事者が声を上げる、と言うことを聞く。そういうとき、それがどんな意味かと聞いていると、当事者の権利を守って欲しいという社会的な訴えである場合が多い気がする。私は当事者として当事者に対して声を上げているつもりだ。私たちは内側からこの病気を崩すチャンスにいるのだと。


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