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竜爪山随想

今、りゅう爪山そうざんの中腹、穂積ほづみ神社境内にあるベンチにて、独り、湯が沸くのを待ちながら、赤飯のおにぎりを食べている。


私は竜爪山には過去に何十回も登っていて、近年では山頂まで登らずに途中の穂積神社で昼食を食べて下山してしまう。
竜爪山は穂積神社より上の登山道は金属製の階段が長く続き面白くなく、山頂の景色がいいかと言えば遠くに清水の港が見える程度で面白くないので、いつのまにか、穂積神社で食事をすると降りてきてしまうようになった。
では何を楽しみに登るかというと、森の中を歩く心地よさを求めて登るのである。あるいは穂積神社での食事を楽しみに登るのである。
今、その食事として、カップラーメンを食べるために湯を沸かしている。この登山で一番楽しい時間かもしれない。コンビニで買った赤飯のおにぎりも美味い。
湯が沸くと、カップに注いで三分待つ。
この「待つ」というのがいかに贅沢か。その間、鳥の声に耳を澄まし、神社の周りの森を眺める。ぐっしょりと汗で濡れたTシャツをパタパタとやって涼む。
三分経つと私はカップラーメンの蓋を開け、割り箸で食べ始める。硬めの麺が実に美味い。


最近、私は登山は貧乏くさい趣味ではないかという文章を書いたりしたが、このようにカップラーメンを美味いと言って食べていることが貧乏くさいという趣旨だったと思うが、それは客観的にしか楽しみを見ることの出来ない、言わばニヒリズムである。
私は高校生の頃、彼女がいなかったので、そのことで常に生活の中に欠如したものがあると感じていて、例えば家族との旅行なども楽しめない自分がいた。「本当ならば彼女と・・・」などと考えて、目の前の楽しみに没頭することが出来なかったのである。
私は今、独りで登山をしている。「本当ならばたくさんの仲間と・・・」などとは思わない。私には共に登山をする仲間がいない。仲間と登ることもいいかもしれない。しかし、独りで登ることと仲間と登ることでは登山の性質がまるで違ってくる。今は独りの登山が楽しいと思うのでそれでいいと思う。今の自分の状況を否定して、「本当の楽しみ」は別にあるというのがニヒリズムなのだ。
今、私は独り、穂積神社でラーメンを食べている。スープを飲む。鳥の声と、ラーメンのスープの味。それだけがある静寂の世界。まるで、茶の湯の野点のだてをしているようである。茶の代わりにラーメンのスープである。
言葉はいらない。
ただ、鳥の声を聞きながらスープを美味しく頂く。
豚骨スープが喉を通り胃の腑に落ちていく。汗まみれの疲れた体にはこの塩分がたまらなく感じられる。
私は今、山の中に独りでいる。
この静寂の中で、私は時を過ごしている。ただ、ラーメンを食べ終え、満足して周囲を見回している。神社の社、社務所、鳥居、トイレ、周囲の木々、空、そんなものを眺めているだけで自由を感じるのである。

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