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分人主義と文体。小説、エッセイ、論文などの文体

noteを初めて三年が経ち、現在「小説家になろう」にほぼ毎日連載小説を書いて一年以上経ち、私は文章力が上がった気がする。このふたつのサイトに掲載されている文章は推敲などせずにそのまま出しているので、文章が上手くなったと言うより、アドリブ感が磨かれたという感じだ。
そんな私は小説の文体とnoteの文体を使い分けているが、noteの文体にはいくつかあって、アウトドアの記事の文体、社会福祉士としての文体、哲学論文の文体、その他エッセイの文体などと、意識せずに使い分けているような気がする。言い換えれば、頭の使いどころを使い分けている。いや、小説も使い分けている感がある。冒険ファンタジーの文体、純文学の文体、「読むお笑い」の文体、などで頭の使いどころが変わる。
これはまるで分人主義の分人の在り方みたいだ。
ひとりでパソコンに向かっているだけなのに私は複数の自分、分人を使い分けている。分人主義の分人とは文体のことなのかもしれない。友達と喋るときの文体、家族といるときの文体、恋人といるときの文体。文体と言ってしまうと、作り上げた言葉のようにも聞こえるが、毎日色々な文章を書いている私にとって、文体の使い分けはけっして作り上げた物ではなく、そのときの頭の使いどころによって自然と決まってくるものだ。
経験から考えてもわかると思うが、親に対する言葉使いと、友達に対する言葉使いが違うと感じた人も多いのではないだろうか?
小説の文体もこの頭のどこを使うかで変わってくると思う。
芥川龍之介の文体は理性的で高潔な頭、三島由紀夫の文体は哲学的でエロい頭、中上健次の文体は外で肉体労働をして来た直後の頭などである。あるいはそれらをミックスする場合もある。
分人主義では「本当の自分はひとつじゃない」と言うが、小説家など文筆家の文体もひとつではない、ひとりでいくつも文体を持っていていいと思う。そのほうが人間としての幅が広がると思う。


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