見出し画像

社会福祉士、ジェネリック・スペシフィックを哲学する

社会福祉士の資格取得のために勉強した時の知識だけで論を進めていくので、プロフェッショナルな社会福祉士から見ると至らぬ点があるかと思うが、この文章はどちらかというと、哲学である。ジェネリック・スペシフィックは可能かどうかについて考えてみたい。
 
まず、ソーシャルワークにおいて、ジェネリックとスペシフィックとは何か。ジェネリックは「包括的な、一般的な」という意味があり、スペシフィックは「特殊な、特定の」という意味があるらしい。
そして、ソーシャルワークにおいて、ジェネリック・スペシフィックとは特定の個別な事案を、一般的な事案として考えることであると思う。例えば、地域福祉においては、お年寄りが、買い物に行けないと相談に来た。そうなると、このお年寄りを買い物に連れて行くにはどうしたらいいだろう、と考えるのがスペシフィックの視点である。しかし、ジェネリック・スペシフィックの視点だと、個人の困りごとを地域の困りごととして見る。このお年寄りはどこに住んでいるか。すると、山間の集落であることがわかる。そこにはスーパーマーケットなどなく、高齢化率が高く、同じような悩みを抱えている高齢者が多いことがわかる。すると、社会福祉士はこの来談者の相談事の解決手段として、移動スーパーを、集落に回ってもらうようにするとか、集落の高齢者を定期的に車で市街地のスーパーマーケットに運んでくれるボランティアを募るとか、この来談者の困りごとだけでなく地域の問題を解決する、これが現在の地域福祉の思考の方向性だと思う。
しかし、ジェネリックとスペシフィックは対立する概念である。地域福祉だと上のようにわかりやすいが、他の領域ではどうだろうか?それに私は勉強中、目の前の来談者の相談事を聞きながら地域全体の問題として捉えようと思考が働くことは目の前の来談者の個別化ができていないような気がしたが、それはソーシャルワーカーとして私が未熟だからだろうか。
 
ジェネリックとスペシフィックという言葉で思い出すのが、私が通っていた國學院大學の哲学科の神川正彦のゼミのことだ。そのゼミでは「普遍」と「個別」をテーマにディベートした。神川がなぜ、ディベートを学生にさせるか語ったが、それは、日本は和の国で座談の文化で、物事は仲良く話し合って決める文化である。しかし、西洋はディベートで意見をぶつけ合って、相手を言い負かす文化である。だから、日本人が西洋人と渡り合うには、ディベートの力が必要で、政治やビジネスの世界ではその技術が必須だと言うのだ。そのディベート力を高めるために、ゼミでは、「普遍」側と、「個別」側にチームが分かれ、さらに判定者を設ける。普遍側につく人間、個別側につく人間の思想信条は無視し、とにかくディベートに勝つために論を組み立てねばならない。その議論でどちらが勝ちかを判定者が判定する。そういうゲームを一年間やった。
普遍は一元であり、個別は多元である。
現在、政治の場でも多様性が唱われている。これは価値観の個別化が一般化してきた証拠だと思う。まさに、ジェネリック・スペシフィックなのだが、しかし、このふたつの概念を掘り下げてみたい。
 
ジェネリックを「普遍」、スペシフィックを「個別」と言い換えて論じてみたい。
まず、普遍は必ず、個別を包摂しようとする。そこには必ず、「個別」という普遍というようになる。例えば、性の多様性を唱うとき、「性の多様性は大事なんですよ」と一般的思想として語るのが普遍の立場だと思う。しかし、中には「性の多様性なんて認めない」という人もいるだろう。そういう人の意見は個別の意見だが、現在は主流の多様性の思想に負けてしまう。つまり、性の多様性は、一見一般論、ジェネリックであるのだが、「性の多様性を認めない」という思想を排除する思想である。「女は家庭に入るべきだ」そのような思想も包摂してこそ、「普遍」の思想であり、ジェネリックであるはずだ。つまり、普遍的な思想に見える性の多様性が、実は、「性の多様性は認めない」という思想を完全に抹殺した思想だと言えると思う。これが思想上のディベートの正体で、西洋由来の思想運動なのだ。ただ、私の勉強不足で、「性の多様性を認めない」というのも多様性に含まれるという議論があるかもしれない。それにしても、多元は一元に含まれるか?あるいは一元は多元に含まれるか?そんな古典的な議論がまだ続いているのが現代の思想の場である。それはプラトンの「イデア」の思想と、アリストテレスの「エイドス」の思想を、繰り返しているように見えなくもない。もちろん、「イデア」が普遍で「エイドス」が個別だ。
 
ソーシャルワークは実践に即した学問であり、哲学的抽象的な議論はそれを補強するための議論かもしれない。しかし、ソーシャルワークの本を読むと、実践的なのか、哲学の領域なのかわからないものがある。実践の学問であるはずが、抽象度の高い議論をしてしまい、現実に当たるソーシャルワーカーが抽象的な頭で実践に臨むのは少し危険な気がする。
私はソーシャルワークの実践が皆無であるが、抽象的思考で現実に対応しようとすると、上手くいかないことが多いと経験的に知っている。
福祉でまず大事なのは、抽象的議論ではなく、クライエントが、幸福に暮らせるお手伝いをすることであるという単純なことが基礎にあると思う。そうなると、「普遍」よりは「個別」が重視される世界だと思うが、どうだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?