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私が命を大切にする理由

私は小説家を目指していて、登山を趣味とし、介護を仕事としている者である。
昼間は特別養護老人ホームで年寄りの介護をし、夜は小説を書き、休日は山に登る。
今日は八ヶ岳の北横岳と大岳にピストンで登って来た。
下山時、私の頭の中は思考が活発になる。
今日は半ば怒っていた。
前日に今度行こうと思っているジャンダルムについて父と話したとき、父は「あそこは毎年、死者が出ている」と言った。私は言った。「行くな、と言うことか?」「そうだ」。
父は登山など知らない人間だ。そんな人間に、「登山は危ないから行くな」と言われても絶対に従いたくはない。ジャンダルムはたしかに危険だが、危険ならばどこの山にもある。どこに熊が出るかわからないし、火山ならばいつ噴火するかもわからない。だいたい、自動車に乗るのも危険はあるし、道を歩いていても危険はある。ジャンダルムだけが危険なのではない。
命を大切にするためにジャンダルムには行くな?
だったら、「命を大切にするために外出はするな」と言うのか?
なんのための命か?
私は特養で寝たきりの、もう喋れないような老人のオムツを交換したり、食事の介助をしたりしている。そんなとき、「この人は、なんのために生きているのだろうか?」とよく思う。しかし、彼ら彼女らは生きているのである。ベッドの上で寝ているだけだが、生きているのである。
他にも喋ることのできる元気なお年寄りの介助もする。そんなお年寄りからは、健康で穏やかに過ごしたい、と言う言葉を聞くことが多い。年寄りになると、健康で穏やかであることが、一番重要であるのだ。
しかし、若者はどうか?
野球をしたい子供に、「野球はボールが眼に当たると失明するからやってはいけない」と親は言うだろうか?よく、マンガで、「次の試合、投げたら一生野球はできない肩になる」とドクターストップのかかった投手が、甲子園出場をかけた試合で、肩が壊れるのを覚悟でマウンドに立つ」というものがある。そういうものが若さではないだろうか?生きるということではないだろうか?
「健康で穏やかに何事もなく過ごす」それは年寄りの生き方だ。
私は山に登りたいし、旅行に行きたいし、小説を書きたい。山や旅行はわかりやすいと思われるだろうが、小説も精根尽きるのを覚悟で書くのである。書き途中の小説があれば、「まだ死ねない」と思うのである。
だから、現在書き途中の小説があるし、将来もっと売れたいし、旅行も行ってみたいところがたくさんあるし、そんなわけで、ジャンダルムで死んでたまるかと思うのである。
しかし、ジャンダルムに行かないという選択肢はない。なぜなら、行きたいからだ。私の体力、登山技術ならば、あの岩の上まで行くことが可能だろうと思う。ただ、天候が悪ければ行かないつもりだ。奥穂高の山小屋まで行って、そのまま帰ってくることになっても構わないと思う。
無理をして行けば死ぬだろう。ただ、父の言うように、死者が毎年出ているから行くな、というのは違うと思う。父はもう年寄りなのだ。それに父は退職後、自由の身になっても、旅行などにほとんど行かず、家でテレビを見ている。なんのための老後か?なんのための人生か?何のための命か?
健康や命が大切なのはそれがあることでしたいことができるからである。
たしかに年寄りで体が弱くなれば、健康で穏やかであるのがなによりかもしれない。
しかし、若くて健康ならば、したいことができる。
働いて、テレビを見て、ネットを見て、そうやって時を費やしているのは、健康や命を無駄に費やしているとしか思えない。
 
*この文章は体の不自由な若者を度外視していると思われるかも知れないが、障害者でも若さはある。できることは挑戦すべきだと思う。

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