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芸術を「趣味と割り切っている」と言う人は芸術家ではない

世の中には趣味で芸術をたしなむ者がいる。それはそれでいいと思う。しかし、芸術家になりたかったのに、夢をあきらめ、「趣味で続けることにしました」という人の創作活動は芸術家の活動とは言えない。
資本主義社会にはプロフェッショナルとアマチュアという二項対立があり、その定義はその活動で収入を得ているかどうかにあるとされる。そのために、例えばロックミュージシャンになりたくて中学生時代からバンドを組んで活動していた人が、三十歳手前くらいで夢をあきらめ、音楽とは全く関係ない仕事に就き、音楽は「趣味で」続けるというパターンがあると思う。そういう人はもう芸術家ではなくなる。私は思うにそういう人はプロを目指していたときは芸術家であったと思う。しかし、「カネを稼げないなら芸術家ではない」みたいな考えが資本主義にはあるため、多くの芸術志望者が脱落していき「趣味人」になってしまう。本当にこれでいいのだろうか?カネを稼げない者は芸術家ではないのだろうか?カネを稼げないならば「趣味」になってしまうのだろうか?もし、カネを稼げないから趣味人に転向したという人がいたら、その人の芸術は資本主義に屈したのだと思う。芸術とはそもそもカネとは無縁の人間の営みである。それなのに、カネを稼げないから芸術ではなくて趣味というのは芸術の定義に反すると思う。芸術の定義は少なくともカネを稼ぐかどうかという点にはないはずだ。生活のために稼ぐ仕事は「稼業」と呼び、本業は一円にもならない芸術だと胸を張って言える社会になったらいいと思う。
私は小説を書いている。それを稼業にすることを目指している。しかし、新人賞に二十代から投稿し続け十五年以上経つのだが、受賞には至っていない。つまりプロとしてデビュー出来ていない。二十代から三十代はパートタイムで働きながら小説を書いていた。しかし、パートタイムでは収入が少なく精神的に不安定で、小説一筋でその夢を掴むまでは他の仕事はしない、みたいな考え方では逆に良い作品は書けないのではないかと思うようになった。そのため、三十代半ばで小説とは全く関係ない介護の仕事に就いた。なぜ介護かというと、その業界は人材不足であるため、確実に就職できるであろうことと、働く環境が小説執筆に良い影響を与えるであろうことが理由だ。環境が小説執筆に良いというのは、まず、人間を相手にする福祉の仕事であることと、体力的に肉体労働ほど肉体を酷使せずにすむし、精神も酷使することがないため、家に帰ってから小説を書く気力と体力があることがあげられる。介護職の職場によっては過酷な労働環境があるらしいのだが、私が就職した職場は過酷とは程遠い良い職場だと思う。だから私は、「職業はなんですか?」と訊かれたら、「介護士です」と答えるだろう。しかし、「あなたは何者ですか?」みたいに問われたら、「小説家です」と答えられたらいいなと思う。しかし、そう言うと相手は私の「稼業」が小説執筆だと捉え話が面倒になるから現実には「介護の仕事をしながら小説家を目指しています」と答えることにしている。実存主義が流行っていた時代、岡本太郎などは「私は人間です」と答えたそうだが、それも極端かと思う。何を志しているかを自己紹介で述べることは重要であるため、私は小説を志していると最近では堂々と言うことにしている。「小説家」を志しているのではなく、「小説」を志していることがポイントだ。「小説」を志していればすでに「小説家」であると思う。絶対に「趣味は小説を書くことです」とは言わない。私はプロを目指している。それが「趣味で」と言ったらもう夢をあきらめた趣味人で芸術家ではなくなる。私は一流志向で、趣味で芸術をしようという気が起こらない。下手な絵も趣味ではなく一流を意識している。芸術家の定義に下手や上手は関係ない。上手い人がプロで下手な人がアマ、という区別はしないはずだ。下手でも自分を一流と見て本気ならばプロなのだ、芸術家なのだ。
ところで、「趣味でやってます」という人の作品がすべて芸術ではないというのも極論だろう。趣味で描いた絵が本当に素晴らしい物である場合がある。彼あるいは彼女らは芸術家ではないが、その作品は芸術品だ。趣味だからこそ出る味わいが芸術にはあったりする。身内の話になるが、私の母方の祖母は病弱でいつも入退院を繰り返しているような人だったが、ぬいぐるみを作るのが趣味で、よく私たち孫や知り合いにぬいぐるみを作ってくれた。そのぬいぐるみの表情は非常に素晴らしく祖母の人柄と幸せが滲み出て来るようで心温まるものだった。私は高校生の頃、「このクオリティなら売れば相当売れるだろう」などと考えたが、すぐに自分の汚い野心を反省した。もし、祖母がカネのためにぬいぐるみを作っていたとしたら、あの表情は作れなかったろう。そこには趣味とかプロの区別はなかった。しかし、あきらかに芸術だった。祖母は自分を一流と思ってなかったろうし、芸術家だと思っていなかったと思う。趣味だとか芸術だとか考えず、ぬいぐるみを貰った人の喜ぶ顔が見たかっただけだと思う。そんな祖母のことを思い出すと、私は「小説で売れたい」などと思う自分が恥ずかしくなる。しかし、私は小説が好きだ、物語が好きだ。売れたい。有名になりたい。カネが欲しい。祖母の境地には程遠いようだ。
 
本題に戻りたい。
私が今回この記事を書こうと思った理由は、「趣味でやってます」という人の中に、中途半端に「売れたい」という気持ちがあるのが本当に見苦しく思うからだ。趣味のくせに、公募の美術展に応募したり、趣味と言ってるくせに文章作品を自費出版したり、見苦しいと思う。美術展に応募したり自費出版をしたりするのは、もしかしたら売れるかもしれないから、と素直に言えばいいようなものの、そう言わないのだ。また身内のことになるが、教師である私の父は退職金で自費出版した。大量に売れ残った。私はそんな父の行為を見苦しく思っている。私は毎年、大手出版社の新人賞に応募して落選してきた。父は誰の審査の眼も通さずに出版するために自費出版を選んだ。つまり作品の力ではなくカネの力で出版した。それも、地方の新聞社の出版であり県内にしか流通しない。私が「自信があるなら大手出版社に持って行けばいいじゃないか」と言うと、父は「趣味だから」と言った。プライドが傷つかず、自己満足するために誰かに作品を否定されることを怖れていたと思う。父はその本を書き上げるのに十年近くかけていた。その十年が否定されるのが怖かったのだろう。
 
どうも身内のことを書くと話が逸れる。もう一度、本題に戻りたい。
芸術家とはその芸で生活をしていくことのできる人だけではない。「稼業」は別に持っていていい。ただ、自分のアイデンティティがその「稼業」にあるか、芸術にあるかの違いで、芸術家か趣味人かに別れる。そして、なにより重要なことは、自分を芸術家と思っている人と、趣味人と思っている人とでは作品のクオリティに影響が出ることだ。先に趣味でも良い作品はあると書いた。しかし、芸術に人生を賭けている人(生活を賭けている人ではない)の作品は迫力が違う。「迫力」に価値を置くならばそうなる。名のない人の作品でも、「あ、これは一流だ」というものはある。巧拙はあっても、そこに流れる魂が一流であればそれは迫力として伝わってくる。しかし、かつて芸術を志していた者が、夢をあきらめ、「趣味で続ける」と思った途端、その人の芸術は芸術でなくなる。少なくとも一流ではなくなる。一流とは成功者のことではない。意識の問題だ。例えば、ゲーテという偉大とか天才とかの名を欲しいままにした詩人がいるが、彼を雲の上の人と思っているようでは一流ではない。同じ人間と見なせるようでなくては一流ではない。また、一流の人は、「素人」と言われる人の作品から「一流」を見抜くことができる人だ。芸術は平等であり、誰もが一流になれる。お稽古事でやっている芸術は芸術ではない。
 
私がこの記事で訴えたいことは、芸術を志している人は、それで食っていけないからと、その芸術を趣味のレベルに落とすなということだ。「稼業」は別にあっても、芸術家をやめる必要性はどこにもない。それは資本主義が人間の芸術活動に介入しているためであり、「売れなければダメ」という価値観を社会全体に植え付けているからだ。幸せの人生を選ぶか、芸術を選ぶかの二者択一で迷っている人がいたら、そこは両立させればよいと私は言いたい。芸術があなたをどれだけ成長させてくれたかを考えてみて欲しい。その芸術を捨てた生活にどれだけの価値があるだろう?稼業にならなくとも芸術はできる。つまり誰もが芸術家になり得ると私は思う。

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