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登山と統合失調症について考えたこと

私は本日、山に登り、昼食を食べて下山した。
私は統合失調症を患っていて、登山中はいつも頭の中に言葉が飛び交っていて、誰かと会話するように思考しながら歩くのが常だった。
しかし、今日は登りの間はほとんどそのような幻聴みたいな思考はなかった。
昼食を食べているときも、鳥の声が聞こえるばかりで頭の中はクリアであり、言葉が飛び交うことなく、美味しくおにぎりとカップラーメンを食べることができた。私はほぼ治りかけていることを実感した。
統合失調症は治らないと言われている。せいぜい寛解が限度だ。完治はしない。
しかし、それは真実だろうか?統合失調症になった人はもう二度と健康に生きる希望はないのだろうか?
私は十二年前から登山をしている。
特にリハビリという意味でやっているわけではなく、あくまで楽しみとしてやっていた。
現代は健康病だ。
人々は健康のためにウォーキングし、健康のためにジムに通い、健康のためにランニングする。
健康はなんのためにあるのか?それが目的ではあるまい。
それに対する私の答えが「登山」だ。
健康のために登山する人など聞いたことがない。逆で健康だから登山が出来るのだと思う。
私は統合失調症だが登山は出来る。
だが、健康のために登山をしてきたわけではないのだが、少しは精神の健康に効果はあるかな、とは思っていた。
結果として効果はてきめんにあり、きょうの昼食の時などは、頭の中に思考が止まらないということはなく、思考は止まり、ただ、おにぎりとラーメンの味と、周囲の森で鳴く鳥の声だけが、私の感覚器官に感じられるのみだった。
しかし、下山時にはまた脳内の独語が始まるのだろう、と予想していたが、やっぱり、下山を始めると、脳内が活発になり、言葉の嵐となった。
そこで考えたことが、この文章で書いていることで、特に「言語化」というのがテーマだった。
私はラーメンとおにぎりの味を言語化しなかった。鳥の声も言語化しなかった。それらは言葉として私の中に入り込むのではなく、直に入り込んでくるものだった。
最近の教育では「言語化」することを強調して教えているらしいが、私は言語化できないもののほうが重要であると思う。
野球でホームランを打てるがどうやったら打てるかを言語化できない打者と、ホームランは打てないが打てるやり方を言語化できる解説者と、どちらがホームランの打ち方を知っていると言えるだろうか?
あるいは音楽の素晴らしさを言語化できる評論家と、言語化できない素晴らしい演奏をする音楽家とどちらが、音楽の深みを知っていると言えるだろうか?
現代は言語偏重の時代である。
私は病気柄、言語の支配する世界の外へ抜け出したいと思う。
これは仏教の解脱(悟り)に通じる志向かもしれない。
仏教哲学は悟りを開くための哲学である。悟りを言語化しているのであるが、修行者たちはその言語化された教義に苦しめられ、非言語である悟りに至ることがかえって難しくなるのだと思う。
仏教に精神医学のリハビリをなぞらえれば、統合失調症が完治するのは解脱(悟り)である、ということになる。しかし、解脱(悟り)となると大袈裟でそんな言葉を意識していたら治るものも治らないと思う。
私は今日、単にラーメンとおにぎりを食べ、鳥の声を聞いたに過ぎない。そんなたいしたことをやったわけではないのに、仏教修行者はそれを悟りだの解脱だのと難しく言うのだと思う。だから、私は僧侶ではなく、市井の人で心の明るい人のほうが尊敬できるのである。
仏教の強い影響を受けた哲学者、西田幾多郎は、「自覚」という言葉を使っているが、これは悟りの自覚だろうか?もしそうだとしたら、その自覚は悟りの言語化であろうと思う。これは実践的には非常に苦しいことだと思う。
悟りや解脱、あるいは寛解、完治、そして健康などとハードルを上げないで、純粋に登山を楽しんでみてはいかがだろうか?登山中、幻聴が聞こえてもいいし、幻視があってもいい、自然の中を歩くことは無意識のうちに私たちを癒やしてくれる。無論、癒やされに山に行くと言うよりは、楽しみとして山に登ると言ったほうがいい。家の中にいるよりは思い出が残るだろう。その思い出の積み重ねが、私たちの人生を豊かにしてくれるのだと思う。
これがこれを書いている現在、統合失調症者にアウトドアを勧める会会長を名乗る私の思いだ。

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