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SNSと新聞の投書とかラジオ投稿など~夢と現実について~

私は四十五歳で、インターネットが世に広まり定着し出したのが大学生の頃だから、正直、ITにはついて行けてない。
いや、ついて行こうとしていない。
あの当時、パソコンは高価で大学生で持つ者は少なかった。大学にパソコンルームがあり、先進的人間と自らを思う者たちはそこへ籠もって何やらしていた。私にはただ暗い部屋に引きこもっているだけのように思えた。
当然、SNSなどというものは知らなかった。
ツイッターとか流行り始めたが、つぶやきを公開して何が楽しいのか理解できなかった。
そういえば、私の父方の祖母は政治のファンで、よく「新聞に投書した」とか「出版社に手紙を送った」などと言うことがあった。これも私には理解できなく、投書なんぞして、なにが面白いのか、まったく理解できなかった。
自分の小説が本になって売れたとか、そういうことならばわかるが、一読者として、新聞の隅にちょこんと名前と文章が載るだけで喜ぶ脳みそが理解できなかった。祖母は友達が少なかった。
私の子供の頃の世界とは、自分の生活の世界そのままだった。
テレビの中の世界はもう別世界だった。だから、芸能人とかテレビに出てくるものは現実ではなく、夢であり、自分の生活や周囲の人間関係だけが現実だと思っていた。だから、小学校の修学旅行で東京に行ったとき、そこがいつもテレビで目にするばかりの街で、非現実の世界に行ったように思えた。
中学生くらいになってくると、現実の自分の生活、人間関係などがつまらなくなり、非現実を求めるようになった。東京に行き有名人になりたいと思うようになった。しかし、そこには現実と非現実の線引きが意識の中ではしっかりとあった。非現実の中に思い描く夢を実現した自分と、現実の平凡な自分、その線引きが崩れたのは、高校二年生の秋だった。
私は精神病になった。統合失調症だ。私はマンガ家になりたいと強く思っていて、現実には絵が下手で、夢ばかり膨らんだ妄想癖の高校生に過ぎないのに、もう有名人だと思い込んでいた。
それでも意識のどこかには、「これは普通じゃない」というものがあった。
芸能界は現実ではないし、テレビに映る世界も現実ではない。新聞の中に世間はなく、ただ、自分の周囲だけが現実であるという認識はずっとあった。その現実がわからなくなったから、精神病なのだ。
つまり、私の認識では、新聞の世界も、テレビの世界も、書物の世界も、つまりメディアの世界は現実ではない。メディアはメディアに過ぎない。私は文通というものをしたことがなかった。文章とは文字に過ぎず、肉体こそが現実の人間だった。肉体にこそ精神は宿っていた。特に顔。
しかし、大学生の頃は、その肉体を蔑視していて、哲学書などを読み、書物の世界が現実の世界になってしまった。
そんなとき、インターネットが現れた。
私は文学雑誌や、新聞が現実だと思うようになったものの、新しいネット社会には警戒感があり、SNSなど理解に苦しんだ。SNSにつぶやいて何が面白いのだ?私の偏見では、SNSにつぶやく者はたいがい、現実に肉体を持った友達が少ない奴だと思った。マンガ家とか小説家を目指す私が友達の少ないことも自覚した上での認識だった。私の祖母のように新聞に投書する者、ラジオにハガキを送る者、みんな現実の人生に敗れた敗者だと思った。
ラジオで自分のハガキが読まれて喜んだり、新聞に自分の投書が載ったり、SNSでスキを押してもらったり、そんなもので自分の存在価値を確かめている者は、現実の人生に敗れた者だと思った。ただ、その中で特殊なのは、小説家やマンガ家、芸能人、芸術家など社会的な成功を収めた者たちだけだった。社会的な成功を伴わない、投書や投稿は無意味なような気がした。
人生とは夏は川で泳いで川原で友達や恋人や家族などでワイワイとバーベキューをやったり、冬はゲレンデでスキースノボーをやって夜は仲間で鍋を囲む、そういったものが現実の幸福だと思った。昔流行った「リア充」という言葉があてはまる。
メディアの空間。古くは読書空間は現実ではなく、たとえ、歴史に名が残っても、その歴史の存在場所自体が現実ではなく、現実はただ、動物的な人間関係、友情、恋愛、家族愛、仲間の絆、そういったものを深く感じて信じ抜いてこそリア充があり、そこに背を向けて、読書やインターネットなどに時間を費やすのは現実逃避だと私は考えた。私は歴史に名を残すと中学生の頃誓ったのだが、どうもその「歴史」というのが胡散臭いものだと最近では思うようになってきた。蝉は地上に出て七日しか生きられない。精一杯啼いて、恋をし、子孫を残し、リアルに充実した一生を送ってこそ、本当の人生だと思う。
文明が高度に発達し、情報化が進んだ現代はメディア空間に現実が侵食され、「リア充」を見失いがちになっていると思う。先に述べたバーベキューやスキースノボーもイメージでありそれをしていれば「リア充」というわけではない。
文学などでリアリズムが進み、現実とメディアの区別がわからなくなった近現代の文学などは失われたリアルを取り戻すことが目標だと思う。
 
*この文章はネットに書くこと自体に抗いながら書いたので、まとまりがないが、思考の方向性としては間違っていないと思う。

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