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日本福祉大学と国学院大学を比較して見えてくるもの。教育と矯正について。

私は二十四歳で国学院大学(以下、国学院)を卒業している。四年制大学として、まあ普通だろうと思っていた。大学というのはどこも自由な所だと思っていた。しかし、三十八歳で社会福祉士の資格を得るため、日本福祉大学(以下、日福)の通信学部に入った。二年で卒業し、国家資格である社会福祉士の資格試験を受けるのだ。そのときの二年間、不自由だった。何が不自由かと言うと、思想の自由が許されないところがあった。三冊本を読んで読書感想文を書け、という課題が出ると、大学側はテーマを設定して来るのであるが、まあ、それは当然だが、私は、テーマにあった本のつもりで、ルソーの『エミール』とテンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』とあと何か一冊を選んで参考文献としたら、添削で「これはあなたの興味になっていますよね」とあった。どういうことかわからず、説明を聞くと、「参考文献は教科書に書かれていますよ」とあった。教科書に載っているものを読めとはどこにも書いてなかったと思う。それから作文では自分の考えは封じられ、「社会福祉士」の考えを述べるように指導された。だから私は文章を書くときに常に「社会福祉士ならば何と書くだろうか?」と忖度しながら書かねばならなかった。非常に窮屈だった。国学院では哲学科だったが、非常に自由で、例えば二年生の哲学基礎演習Ⅱという授業では、年度の初めの授業でその年度の最後に書く論文のテーマが与えられ、あとは規定の出席回数(たしか三分の一)をクリアすれば論文の出来栄えだけで単位がもらえた。そのテーマが『近代合理主義は破綻したか』だった。私は近代合理主義についてほとんど知らなかったので、仏教を持ち出して『近代合理主義は存在しない』というようなことを書いた。まったく忖度などしていない。それで合格だった。ところが、日福ではどうかと言うと、もちろん資格を取るための課程ではあるが、社会福祉士としてどう考えるかを書かねばならず、社会福祉士の存在を否定しようものなら、即落第といった感じだった。国学院の哲学科ならば、『哲学は無くていい』という趣旨の論文を書いても認められるはずだ。
これは哲学科と資格試験のための課程との違いだろうか?それとも大学の偏差値によって違いがあるのだろうか?などと考えた。偏差値を調べると国学院の哲学科は65くらいで、日福の社会福祉学科は50くらいである。日福はネットを見ればわかるが、毎年何人の社会福祉士合格者を出しているかなど実績を強調している。私もその宣伝にやられて日福の通信課程を選んだわけだが、そういう実績を強調する学校というのは大学でも高校でもあるいは予備校でも、生徒を必死に集めなければ生徒が集まらないという事情があると思う。
この偏差値の低さが教育の質に繋がるのだろうかと私は考えた。つまり日福では、一人前の社会福祉士に矯正するように育てられた感が私にはある。そこでもしかしたら、偏差値の低い高校などの不良たちはみんな「先公たちは俺たちを立派な大人に矯正しようとしている」という印象を教育者から受けているのかもしれないと思った。そういえば、私の通っていた田舎の中学では風紀検査が厳しかった。靴の色は白、靴下の色も白、学生服は「ボンタン」禁止、前髪は眉に掛からない程度、などなどと、服装にこまごまとしたルールがあった。私はそれが非常に嫌であった。ところが私は勉強が出来る方だったので地元の進学校に進むことになった。その高校には風紀検査などなかった。すると友達から「おまえはいいよなぁ、ボンタン穿けるんだもんなぁ」などとうらやましがられた。私はボンタンに興味はなかったが穿ける自由を手に入れたならば穿くべきだろうと思い高校生になるとボンタンを穿いた。しかし、二年生くらいになるとそれが恥ずかしく、中学時代のノータックのズボンを穿くようになった。その当時、1990年代後半には女子高生の間ではルーズソックスが流行っていた。私の高校ではそれを履いて来てもなんとも言われなかった。しかし、世間の他の高校ではルーズソックス禁止とかで、通学中はルーズソックスを履いて、学校の近くでそれを脱ぐという光景が見られたそうだ。きっと窮屈な思いをしていただろう。そういう子たちは学校というものをどう考えていただろうか?ある工業高校に行った友達の話を聞いたら、その高校では授業が成立せず、教師が話している授業中も、不良の生徒たちはわいわい騒いで、中には「おい、先公、ちょっとこっち来いよ」などと先生に手招きする者もいたそうだ。だから、そういう不良は、「学校は自由を制約する場所」と捉えていたかもしれない。私の日福体験も思想的な自由が制約されていたと思う。私は日福を悪い大学だとは思わない。しかし、もし、日福の通信制以外の学部も同じように何者かを養成しようという学部であったならば、何かの理想像に学生を矯正していくという傾向があるかもしれない。
私の通った国学院では先生の中には授業の始まりに「なんで君たちは授業に出てくるの?もっと遊びなさいよ」という人もいた。そういう先生が日福にもいるだろうか?
私は矯正というのは誰のためにもならないと思う。もちろん生徒のためにならないし、教師のためにもならない。矯正する教師はたぶんそれを望んでいない。
まあ、せっかくだから福祉に寄せて考えるならば、矯正されなかった不良とされる子供を温かく迎える場を作るのも福祉であると思う。
国学院の入学式で学長が言った言葉であるが、「大学は勉強するところではない、研究するところだ」というのが私が大学に入ってよかったと思った最初の瞬間だった。「もう勉強はしなくていいんだ」と思った。自分を矯正しようと勉強させる先公どもを恨む不良には「学ぶ自由」に届かず終わってしまう人が多いかもしれない。しかし、私は文系科目ならば図書館に行けば充分学べると思う。理系は実験室とかが必要なのかもしれないが、私の学んだ文学や哲学、歴史あるいは法律、経済などは、大学に行かなくとも充分学べる。そういえば、偏差値の話をしたついでに、去年亡くなった安倍晋三の学歴を考えた。成蹊大学である。その偏差値は私の通った国学院と大して変わらない。東大を出ていなければ総理大臣になれないわけではない。それに学歴には現れない人の能力というものがある。リーダーシップ、責任感、コミュニケーション能力、人脈、などなどだ。
矯正は人を育てない。自主的に学ぶ心を育てることが何よりも肝要であると思う。

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