詩を詠むこと書くことの効能

私は詩を詠むこと書くことは心のリハビリになるのではないかと考えています。『脳内ツイッター』という記事の中で詩を詠むことについてすでに書きました。風景の描写を口に出してつぶやくのです。口に出すことで脳内にまとまりのなかった思考がそのときだけ統一されるような気がします。精神病のために独り言が止まらないという人がいると思います。都会の街角などでそういう人を見たことのある人は多いのではないでしょうか。私は街角ではやりませんが、ひとりで車を運転しているときなどに独り言が止まらなくなることがあります。そういうときは脳内が興奮し独創的なアイディアが出てくることが多いです。ただ、独り言を言っているところを知人に見られたら嫌だな、というのはあります。

文章を書くという行為は独り言です。でも、異常なことではないと思います。もし、それが異常なことならば、教育そのものが病人を生み出していることになります。精神病で妄想に襲われている人は、その妄想を文章に書いて見るといいと思います。立派な文章でなくても構わないと思います。殴り書きでいいと思います。人に言えないようなことでも文章ならば許されます(もちろん、公表して他者に害を与える文章はいけません)。暴力的なことや性の妄想でも構わないと思います。思いつくままに書くことが大切だと思います。そして、少しずつポジティブなことを書くようにしていくといいと思います。実際文章を書く人には、SNSで病気のことを書いて共感を得ようとしている人がいると思います(私もそのひとりだと思いますが)。そういう人たちで、例えばリストカット(私はこの言葉がオシャレで嫌いです)したことをどこか自慢げに書いたり、病んでいる自らを戯画化したりしている人がいると思います。それはある程度構わないことだと思いますが、やはり、ネガティブな所で共感を得ようとするよりもポジティブな気持ちで共感できたほうが心が明るくなっていいと思います。(私が大学生だった頃、大勢の学生が騒いでいる中、友達のいない私が独りぼっちでうつむいてエレベーターを待っていたとき、文学部の太宰治専門の先生が近づいてきて、私に「暗いぞ」と笑って言ってくれました。そのとき、私の心はパッと明るくなりました「私を見てくれている人がいた!」、そんな思い出があります。その経験からすると、もしかしたら「暗さ」を共有したいというのも人間の本性としてあるのかもしれません)

私は前回の記事で、『いつでもこれから』という詩を投稿しました。これは二十代のときに書いた詩で、私は滅多に詩を書いたりしないのですが、ある日、この詩のアイディアが突然出て、書いてみてデイケアに持って行きました。みんな「いいね」と言ってくれました。学生時代から付き合いのある病気ではない友達に見せたら、「『いつでもこれから』じゃなくて『いつでもここから』のほうがいいんじゃないか」と批評を頂きました。彼が言うには、現在=ここ、としたほうが現在を生きるということが強調されていいとのことでした(この彼は当時、法律家を目指して試験勉強していました。つまり現在の試験勉強を頑張ることが将来につながるという境遇にいました。人によってそのときの境遇が違うわけだから、いいと思う詩も違うのでしょう。おもしろいです)。しかし、私は、病んでいる現在を否定し、さあこれからだ、と思いたいので「これから」にこだわりたいと思いました。このように、文章を書いてみて、人に見せて感想や批評をもらうことはコミュニケーションの道具になると思います。自分とは違う考えを知る機会にもなります。それは病気のために現実離れしていた頭の中身が現実につながるうえで有効だと思います。『いつでもこれから』は風景の描写を詠んだ詩ではありません。抽象的な詩です。この詩は頭を使いました。夢中になれました。逆に風景を詠むことは頭をひねる必要はありません。ありのままの風景を詠めばいいのです。

最後に、私は詩を詠むことはリハビリであるとしましたが、そのリハビリはなんのためのリハビリかを述べたいと思います。それはコミュニケーションのためのリハビリです。人と喋ることが大切だと思います。そういう私はまだ、人の眼を見て話すことができません。つい眼をそらしてしまいます。眼を見て話すというのは、とても大切だと思います。なぜ、大切かということは、私にはまだわかりません。できるようになってから実感するものだと思います。私は二十五年前に比べたら人との会話が円滑になったと思うのですが、まだ、伸びしろがあると思っています。それが眼を見て話すということだと思っています。SNSでつながることもいいですが、人と会って向かい合って話をするのが一番だと思います。

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