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統合失調症を山に連れて行きたくない。

昨日と今日の二日で、私は山梨県にある鳳凰三山の薬師岳という山に登ってきた。
昨日は曇り半分、晴れ半分の天気で、山頂からは比較的良い見晴らしが見られた。

薬師岳山頂から富士山

この山に登った目的は、初めて秋の登山をしてみたかったのと、薬師岳山頂から、夕日と朝日を見たかったのとふたつある。しかし、昨日は雲が多く夕日はほとんど見られなかった。しかし、夕日を諦めて山頂から十分ほどの薬師岳小屋に降りようとした途中、視界が晴れ、北岳が見えた。

間ノ岳から光が雲の上を滑るように射した


ビールと北岳
ポテトチップスとビール


日没時のチョコレートとコーヒー

私は山頂で二時頃ビールを飲んでポテトチップスを食べ、北岳や富士山、それから紅葉の薬師岳を見て充実した時間を過ごした。そのあと小屋で昼寝した。起きたら四時になろうかという時間だった。私は湯を沸かしラーメンとおにぎりを食べた。それからコーヒーの入った水筒とチョコレートを持って山頂に上がった。夕日を見るためだ。しかし、夕日は雲の向こうだった。しかし、先に述べたように諦めかけた時に北岳と雲の輝きを見ることができた。

小屋から山頂までの道
薬師岳を見上げて

そして、翌日の今日、朝、日の出を見ようと思っていたが、雨だったので、六時四十分まで爆睡した。そして、朝食を食べ雨具をつけて下山した。

夕方の薬師岳小屋

雨の中を下山中、自分が「統合失調症者にアウトドアを勧める会会長」を名乗っていることを思い出した。それまでこの登山で統合失調症のことは薬を飲む時間以外は忘れていた。じつに健康的な思考で、山の上の一泊を楽しんだ。

雨に打たれる

雨の中の樹林帯を歩きながら、私は統合失調症について考えた。
私は登山するとき意識するとしないとに関わらず下界とは違う別世界に遊びに行く気分になる。湧き水を汲んで飲料水を補給なんて日常の私たちの生活にはまずない。そして、私は介護福祉士として介護の仕事をしている。年寄りの世話だ。そういえば、今回、同じ小屋に泊まったのはおばあさん三人組だけだった。すごくない?腰の少し曲がった七十代くらいのおばあさんが2700メートルを超える山に登ってるんだぜ?私が老人ホームでお世話している人はほとんどが車椅子ユーザーだ。もちろん山など登れない。ところで、統合失調症を患っている人の中でどれだけの人が身体にも障害を持っているのだろう?私は身体障害については深い考察はない。ただ、身体が健康な統合失調症の人に対する考察はあるつもりだ。このnoteである文章を書いていたら、コメントで「統合失調症の人はニートではありません」というのがあった。しかし、近い存在ではあると思う。私自身、統合失調症を患った無職の時期がかなりある。そういうときは引きこもった生活で、おカネもなかった。もちろん今みたいに登山などできる状況ではなかった。そんな私をモデルに私は統合失調症の人のイメージを持っている。これは偏見になるかもしれないが、人間は万物の尺度と言うように、自分を基準に物事を考えるのは人の常だ。

道の両側は苔の壁

私がデイケアに通っていたときに出会った統合失調症の二十代中心の若い人たちはほぼ無職だった。そして、体は健康だった。自分の車を持っている人も多くいた。私にとって彼らは友人であり、社会福祉士の私のクライアントではない。私は社会福祉士(ソーシャルワーカー)として働いたことは全くない。ただ、名乗って良いという資格は持っているので「SW」を名乗っている。

大地に根を張る

福祉の世界にいると、外が見えなくなる可能性がある。自分が障害者で、障害者福祉を志すという、「かんちがい」な人が私を含めてどれだけいるだろうか?こう言うと色々な反発が来そうだが、統合失調症当事者は、本来、病気を克服し、健康な世界に羽ばたいていくべき存在である。それなのに当事者として経験したことを同じ苦しみで困っている人のために生かしたい、というのは、羽ばたきつつ飛び立っていない、いや、飛び立ちそうだがやっぱやめた、みたいな微妙な位置にいると思う。仏教で言うと、悟りを開いたブッダが、なぜ、涅槃つまり死に入らず、生きて教えを説く人生を送ったか、というのが大問題になっていたと思う。統合失調症、寛解者の当事者福祉はそれに似ている。飛び立てるのに、飛び立つ前の居心地が忘れられず、福祉を仕事に選ぶ。そういう人は必要だが、そういう人ばかりがすべてではない。治って幸せに暮らしている人のほうが真実がある気がする。

青空高く聳える

私にとって登山はそんな障害者福祉系の俗世間から抜け出す為にあると言えるかも知れない。私は「統合失調症者にアウトドアを勧める会会長」など勝手に名乗っているが、自分で首を絞めているようでもある。しかし、「アウトドアいいよ」というのは真実で、私は障害者じゃなくても登山を勧めている。たいがいの人は食わず嫌いで、「山の上の景色は見たいけど、登るのが大変だからやらない」というふうに言う人が多い。だからこそ、私は勧めるのだが、私自身、「海に潜るのいいよ」と言われれば、「やる」と決断するのにずいぶん時間がかかりそうだ。だから、いきなり私が、山に興味がない人に「山、いいよ」と言っても無駄である可能性が高い。だから、私は広い意味でのアウトドアを勧めるということにしている。サッカーや野球は球技であり、アウトドアとは言わないかもしれないが、私の趣旨からすると、アウトドアに入れてもいいと思う。「統合失調症でインドア派です」というのがいちばんよくない。私自身小説を書くインドア派であるので、だからこそアウトドアを取り入れた生活はメリハリがついて良いと思っている。

霧と紅葉のキャンプ場

私は野球経験があるが、高校時代野球部を辞めて野外活動部に入った。野外活動部だから、サイクリングとかボートとかいろいろあって楽しそうだな、と思っていたら、その年から部の名称を山岳部に顧問が勝手に変更してしまった。結局、登山ばかりやった。もちろん良い経験だったが、その他の野外活動ができなくなったのが残念だ。だから、私は現在、登山一本なのかも知れない。野球は世間の中にある気がする。登山は世間から出て行く行為だと思う。いずれにしろ外で体を使う楽しみは人生を充実させる。とくに自然と親しむアウトドアは、統合失調症で部屋に籠もっている人には絶対にお勧めだ。

これはどういう木だろう?

しかし、私は今回の登山で、自分が統合失調症であることをほぼ忘れていた。それを下山時に思い出したとき、「統合失調症にこだわるの、めんどくせーな」と思った。ということは、私にとって統合失調症は自分のことと言うより、他人のことになっているのかもしれない。

千二百円のカツカレー

下山し、温泉に入り、カツカレーを食べた。温泉で体を洗っていたとき、妙に嬉しくなってきた。二十年前、私は無職で、七百五十円の入浴料は高いと思って入らなかっただろう。そして、二十年前の自分ならば、入浴後に食べたのは千二百円のカツカレーではなく七百円のカレーライスだったに違いない。それでさえ注文するのに懐事情が難しかったと思う。それが今では、気楽に払うことができるのである。「ああ、俺もついにここまで来たか」と満足していた。もちろん、この程度の満足は一般世間的に見て安いものだ。しかし、作業所の時給数百円のレベルではできないことだと思う。私は優越感と自由を感じていた。二十年以上の努力でようやく人並みになれたと思った。それでいて統合失調症で苦しんでいる方は同志であるという気持ちもまだある。そんな同志に言いたい。「登れ、登れ!統合失調症より落ちることはもうない。登れ、登れ!一般人になれ、そして、もっと高みへ!」

日本一の富士山

私は統合失調症を忘れたい。

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