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文学脳と哲学脳

また分人主義批判の記事の下書きを書いた。
読み返して見ると例が多く、論理的な部分が少ない。
ここ数年は哲学書を避けてきた。
一年四ヶ月かけて即興連載小説を書いたり、このnoteをほぼ毎日書いてきた。
脳みそが哲学から文学に変化して来ているようだ。
これは非常に良いことで精神的に健康である。
しかし、平野啓一郎など、小説の外部で、自らの思想を発表し、それを小説化するのはいかがなものだろう?哲学をやりたいのか文学(物語)をやりたいのかわからない。思想を表現したいのだろうが物語でそれをやる必要はどこにあるのだろう?
小説家は自分の小説の解説を小説の外部でやるべきではない(と私は考える)。
三島由紀夫の自殺は文学か?
彼は「行為」を重視した。小説を書くのは世間を眺めているだけだと考えたのだと思う。
三島由紀夫の小説への姿勢がまずかったのだと私は思う。まず思想があってそれを表現する手段のひとつが小説だと捉えていたのだろう。
今節、言語化という言葉が流行っている。スポーツまで言語化の波が押し寄せている。スポーツは言語化に馴染まない分野だと思う(野球でイップスになって青春を棒に振った私が言うのだから間違いはない)。
文学というか物語も言語化には馴染まない。物語は言語じゃないかと言われそうだが、言語化の言語は哲学の言語で、物語は想像力を使った職人芸だ。物語の書き方を上手く語れる人が、上手く物語を書けるかというとそうではなく、ホームランを打つにはどうしたらいいかを上手く語れる人がホームランを打てる人ではないのと同じだ。宮崎駿は物語を作る天才職人だったが、外部で語り過ぎたため、『もののけ姫』あたりからイップスの症状が映画に見えるようになった。三島由紀夫は小説ゆえにわかりづらいが、職人と哲学者の両方の能力があるのに哲学者に職人が従ってしまった。要するに柔らかい頭が職人で、固い頭が哲学者だ。
私は最近、頭が柔らかくなっている。これは長く続けている「哲学書を読まない習慣を作る」という努力の賜物である。
私は物語を作る職人になりたい。

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