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『存在と時間』を誤読して哲学する

私が『存在と時間』を読んだのは、たぶん二十年くらい前だ。
2002年、たしかに私はハイデガーの『存在と時間』を読むゼミに参加していた。大学四年生のことだ。
その前にも読んでいて、岩波文庫だったが、恐ろしく読みにくい文章だった。「ですます」調で書かれた日本語訳だった。それをゼミに持って行ったら、ほとんどの学生は、中公バックスの原佑訳の『存在と時間』を持ってきていた。私は岩波文庫版を初め使っていたが、みんなと話がかみ合わなかったので中公バックス原佑訳を買った。そちらは読みやすく、一冊にまとまっていたので、三冊の訳の悪い岩波文庫は用なしとなった。私は原佑訳を読み返してみた。これで二度通して読んだことになる。そして、大学卒業後にも一回読み返してみたような気がする。しかし、あの本を理解できたかというと自信がない。精神を病んでいた私にはあの本から強烈な不安を受けていた。『存在と時間』は私にとって排除すべき存在だった。『存在と時間』を排除するか、それとも死ぬか、そのくらいに深刻だった。なぜなら、ハイデガーの哲学の根底には「不安」があるからだ。私の精神の病には不安は禁物だった。
で、二十年以上経った今、なぜ、ハイデガーの『存在と時間』か、というと、なんとなく哲学的な気分になったので、軽い気持ちで哲学の文章が書けたらなぁ~と思ったからだ。先ほど、他の記事で、『哲学に深入りしないように(小説)』というものを書いて内容が『存在と時間』に触れるものだったことが直接の理由だ。じゃあ、『存在と時間』について私が理解しているかというと自信がない。たぶん誤読しているだろうと思う。しかし、その誤読の中になにか可能性があれば、自分の思想を深めることにはなりそうなのでこの記事を書こうと思った。
私は『存在と時間』について書くが、当の本は私の背後の書棚に収まったままだ。つまり私は二十年前の記憶を頼りに『存在と時間』について、というか、その一部を切り取って色々考えたいと思う。
『存在と時間』の中に「現存在」という概念が出てくる。これは自らの存在を問うことのできる存在だと私は解釈している。間違っていたらすまないと思うが、この誤読かもしれない現存在について考えていきたい。
現存在はよく、「人間」と言い換えられる。たしか、ハイデガー自身もそう言っている。しかし、私はハイデガーに物申したいのだが、なぜ、現存在が人間なのか?せっかく人間とは言わない新しい言葉を作ったのに、また一般の人に分かり易いように「人間」などと言ってしまったのか?私はあの本の中で現存在という言葉に出会ったとき、それを人間とは解釈しなかった。あくまで存在を問うことのできる存在のことだと思った。つまり、人間以外の動物でも現存在はいると思った。宇宙人がいたら彼らも現存在かもしれないと思った。それが知的生命体か、そうでないかのメルクマールになるかとも思った。
しかし、存在を問うことのできる存在とは、やはり不安がまとわりついてくる。なぜなら、存在を問うことは非存在を問うことでもある。つまり無を問うことになる。しかも、『存在と時間』では、時間から存在にアプローチしているため、まるで死の不安が存在を問うことには不可欠なように読むことができる。ジャンケレヴィッチが言う一人称の死を思うことが現存在を現存在たらしめているものと読める気がする。ハイデガーは気晴らしなどを論じているが、どうしても、現存在の有り様は一人称の死への不安に引き戻される。私はこの不安を伴う考え方が大嫌いだ。いや、大嫌いという好悪の感情は哲学的ではないかもしれないが、人間というのはなんとなく好きとか嫌いとかで結構動いている存在だと思う。私は現存在を存在を問う存在者とは捉えないほうがいいと考える。なぜ、ハイデガーは現存在の問いのテーマに存在論を選んだかは私にはわからないが、存在論が哲学の中心課題だと彼が捉えたことは間違いないだろう。
不安の反対の概念に「安心」がある。
私はこの「安心」が作り出すものに興味がある。例えば編み物をしている女性がいると考えて欲しい。彼女は不安に駆られて編み物をしているだろうか?私には編み物をするのはたいがい安心の中にいる女性であるような気がする。そして、彼女の編んだ物は人に温かみを与えると思う。私は何が言いたいかというと、現代美術は不安に価値を置き過ぎる、と言いたいのだ。なぜ、現代美術が突然ここで出てくるかというと、美術界は哲学の影響をもろに受ける世界だからだ。そして、美術以外に文学も映画もより不安を煽る作品が良いものとされる傾向が二十世紀にはあったような気がする。芸術は不安を煽るためにあるのではない。
ハイデガーは日常性も論じている。しかし、それも結局は死で終わるとすれば、日常性は剥ぎ取られることになる。しかし、この哲学は幸せな人に、「どうせあなたは死にますよ」と言っているようで恐ろしい。
ところで、現存在はどこにいるのだろう?空間についてもハイデガーは考察しているが、私はその内容を思い出せない。しかし、私はこのように思う。「現存在は身体が静止した状態で存在を問うているような気がする」。つまり、なんとなくハイデガーはすべて書斎で考えているのではないかと思ってしまうのだがどうだろうか?走っているとき人は存在論を考えるだろうか?海に潜っているとき存在論を考えるだろうか?料理しているとき存在論を考えるだろうか?ハイデガーは書斎から世間を説明しているようで、そのために、室内で読む本としてはうってつけだが、哲学は必ずしも書物の中でするものではない。外で活動するとき、書斎の哲学は邪魔なことが多い。それは私が哲学から離れた大きな理由だが、やはり今度もハイデガーからはおさらばすることで幕を閉じようと思う。読者には駄文に付き合って頂いたことに心から感謝する。

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