見出し画像

高学歴の人の大企業志向が理解できん

私は現在四十二歳であと三十年くらいは生きたいと思っている。その三十年を充実したものに出来ればそれでよい。充実していれば、もし途中で死んでも悔いはないだろう。ここでは詳細は書かないが、私には多くの後悔がこの半生である。しかし、死に様が良ければ多くの悔いがある人生を「悔いがあっても素晴らしかった」と満足できる人生として締めくくれると思っている。その人生を決めるのは私自身である。社会に生かされるのではなく、社会の中で自分の意志を通して生きるのだ。

私は現在、精神疾患に罹っている。統合失調症だ。精神科から処方された薬を飲んで生活している。その受診を決めたのは他の誰でもない、私だ。医者は確かに必要な職種だ。しかし、医者をどう利用するかは患者の意志が決めるものだ。

事業主も私は利用すべき社会資源だと思っている。私の場合、統合失調症という精神病があるため、その心のリハビリとして仕事を利用している。特別養護老人ホームの介護のパート職員だ。一度「デイサービスに異動すれば正規職員にする」と言われた。私は若い職員の多い特別養護老人ホームで引き続きパート職員として働くことを希望した。コミュニケーションのリハビリになると思ったからだ。それで、まだパート職員だ。

私は小説家を目指している。四十代が勝負と思っている。しかし、介護の仕事を辞めて、小説に専念するなどという子供っぽいことはしない。二足の草鞋を履いていた方が、意外とうまく行く気がしている。社会福祉士の資格も取ったし、福祉関係の仕事にも可能性の余地を残しておけば、未来に対する選択肢は多くあり、安心感を得られる。社会福祉士の資格を取ったとき、大学の通信教育を受けた。スクーリングで一緒になった人たちはみな、大人だった。高校から大学へ入ったような若者とは違い、それぞれの人生でそのような資格を得ようと主体的に決めた人たちだ。もしかしたら会社などから命令で取るように言われた人もいるかもしれない。しかし、ほとんどの人は自ら主体的に学んでいる人たちだったと思う。

「良い大学」を卒業して大企業に就職した人の仕事に対する感覚が私にはわからない。会社が命令したら、行きたくないところへ転居したり、まったく興味がない仕事をするのだろうか?もちろん仕事とはしたくないこともしなければならないことは、私もわかっているが、しかし、根本的な点ではやりたい仕事をすべきだと思う。「良い大学」で就職活動をして、有名な大企業の内定が取れたと喜ぶ人の感覚が私にはまったくわからない。私は病気のため大学では就職活動をしなかった。「良い大学」にいる人で、ひとつも内定が取れないと落ち込んでいる人などもいると思うが、そういう人は、二十代の五年間、零細企業の肉体労働をした私のような人生をどう思うのだろうか?私は肥料の袋詰めという地味な仕事を時給八百円でしていた。職場にいる職員は他に四十代の親方がいるだけ。青春としては誰も求めない選択肢だろう。しかし、大企業のエリート社員の青春はバラ色なのだろうか?そもそも、大学生のときに大企業に入れないと不安になって焦っている人はどういう価値観なのだろう。大学時代は学問に励むべき時じゃないだろうか?卒業してから就職活動してはいけないのだろうか?そうすると「新卒」でなくなるという不安があるのだろう。私はこの「新卒」という言葉を日本から消してしまいたい。「新卒」とか「既卒」とか、まったくバカげている。これは差別じゃないか。「新卒」を重視するその根拠がわからない。

私の言いたいのは、自分の人生は自分で決めるべきで、社会が決めるのではないということだ。高校、大学とドロップアウトすることなく生きて来た人は、社会が用意した人生の流れから落ちることに対して、極度に不安を覚えるのではないか。しかし、一生社会の用意した流れから落ちなかった人は必ず保守的になり、歳を取ってから振り返ると、リスクのないあまり面白くない人生を生きたと感じると私は思う。社会が用意した道から外れて自分の道は自分で開拓したほうが、生きた充実感が得られると私は思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?