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芸術と政治の距離。四十代からの人生

私が小説の本を初めて買ったのは、高校一年生のときで、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』だった。夢中で読んだ。そして、俺も世の中のために何かしよう、と思ったが、何をすればいいかわからないまま、それ以前からのマンガ家になるという夢を追いかけて、まずいことに高校二年の秋に精神病を発症してしまった。こうなると幕末の志士みたいに行動はできないと思われた。大学生になってもマンガ家を目指していた。マンガで世界に影響力を行使しよう、そんなふうに思った。いや、マンガではなく芸術ならば何でも良かったのかもしれない。とにかく私は有名になりたかった。有名になれば発言力が上がる、そう思った。
しかし、有名になれないまま現在四十代になってしまった。今は小説家を目指している。高校生、大学生の頃のように「世の中のために活動したい」という意識は薄れてしまった。ただ、自分の作品を後世に残したい、そればかりを考えている。もちろん小説家として世の中のために作品を書くという意識はある。しかし、小説と関係ない活動をして、世の中に貢献しようとは思わない。小説で平和を訴えることはできそうだ。ピカソは『ゲルニカ』を描いたし、ジョンレノンは『イマジン』を作った。それぞれが芸術家としてできる範囲で活動した。
政治のために芸術があるわけではない。だが、政治からなにか触発されて芸術作品を作ることはある。それでも芸術家は芸術の範囲で活動するに過ぎない。ウクライナ戦争が始まったとき、私は数枚のパステル画を描いた。私がウクライナ戦争のためにできることと言ったらそんなものに過ぎない。では、日本で戦争が起こったら私はどうするだろうか?亡命するだろうか?私は日本語でしか小説が書けない。だから、たぶん日本に留まると思う。戦場で戦うことはしない。反戦の小説を書くか、戦争とは関係ない小説を書くかもしれない。自分には自分の人生がある。もし私が十代か二十代だったら、政治に深くコミットするような活動をするかもしれない。しかし、四十代ではもう政治に左右されない自分の人生を生きたいと思う。だから、北朝鮮や中国などの脅威があってもそれについて答えを出そうと深く考えることはない。それを考えるのは専門家であり政治家である。だから、私は良い答えを出してくれそうな政治家に投票し、それについては彼らに委ねようと思う。そうして私は良い小説を書くことに集中しようと思う。国民はみんなが政治家になる必要は無い。みんなが、国際問題に真剣に頭を悩ませる必要も無い。それぞれの人生を精一杯生きることが大事だと思う。その舞台となる平和な社会を実現維持するために政治はあると思う。


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