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小説家を目指している私が父を越えていくための弁証法

私は父の生き方が嫌いで、それに反発するように、マンガ家とか小説家を目指して生きて来た。父は教師で保守的で保身的な生き方をしてひとつも傷のないような人生を生きている。私はそんな父の人生がつまらないと思い、中学生の頃から、アメリカンドリームを掴むための生き方をしてきた。現在四十五歳でまだ小説家を目指しながら介護士をしている。そういえば、父が中学の教頭になった歳が四十五歳だった。教頭と一介護士では世間的には教頭の方が偉いのだろう。しかし、私は文学部哲学科を出ていて、父は教育学部国語科を出ている。国語と文学は違う。文学ならば俺の方が上と思い、小説を書いているが売れないので、世間的には一介護士に過ぎない。しかも独身で子供がいない。父の長男である私は、あのとき十三歳だった。父の方が上を行っているのだろうか?いや、父はお見合いで結婚している。たぶん恋愛はしていない。そういう生き方が嫌で私はお見合いとかマッチングアプリとか絶対にしない。私は父を否定して越えていきたいと思っていた。
否定して越えていく?
弁証法のように?
いや、ヘーゲルの弁証法は「否定の否定」だったはずだ。つまりヘーゲルの弁証法的に父を越えていくというならば、父を否定していてはダメなのだ。と、さっき気づいた。
父を否定することを否定する。
それは肯定ではない。
ではどういうことだろう?
とりあえず、父を否定しているうちは越えることはできないのだろう。もちろん肯定もしない。
私は今回の記事もそうだが、noteでさんざん父の批判をして来た。今も同じ家に住んでいるのだが、不満があると、それについての怒りとか憎悪をキーボードにぶつけてきた。しかし、それは幼いことだ。ただ、子供がいじけてひとりで父親の悪口を言っているだけだ。四十五にもなってそれでは大人げない。では、父を否定することを否定するとはどういうことだろう?それはもしかしたら、「許す」ということか?私は中学三年生の時に勉強の妨げになるからとテレビゲームを捨てられたことを許せない。家でも学校でもシャツの裾はズボンに入れろとか、靴下は白にしろとか、理不尽なブラック校則で俺たちを苦しめた教師たちを許せない。保身のために中学生の弱い心を踏みにじった教師たちを許せない。その代表が私の父であり、それを許したら、なにか大事なものを失うような気がして生きて来た。それを許すべきなのか?許すとはあちら側の人間になるということなのか?いや、それも違うだろう。しかし、許すとは父を肯定するのとも違う。ブラック校則を肯定するわけがない。私が父親になって子供のスマホを捨てるみたいなのがいいわけがない。そうやって同じことを繰り返していては人類の進歩はない。否定の否定・・・許す?・・・いや、許せない。・・・忘れる?・・・いや、それは否定の否定ではない。
私にとって父とは保守保身であり、例えば自民党であり、NHKであり、大手企業とかであるのだが、それらを否定することを否定するとは、例えば自民党を否定する野党を支持することとも違うし、自民党を支持することとも違うと思う。否定の否定は肯定ではない。もう教師になれる歳ではないし、なりたいとも思わない。また、中学生の味方をして、校則批判を続けているのはただの否定だ。否定の否定。
父の存在と、父を否定した私の存在を否定すればいいのだろうか?
もちろんヘーゲル弁証法が絶対に正しいというわけではないが、今日はヘーゲル弁証法によって考えたい気分なのだ。
だから考える。
否定の否定。
やっぱり「許す」ということなのだろうか?
しかし、そうやって時が経てば許されるというのが父のやり方に染まった考え方なのだ。長いものには巻かれろ、みたいな。父は私にテレビゲームを捨てたことを謝ったわけではないし、一方的に許すのも違うと思う。そこには父だけでなく世の中の歪みがあるわけだから。
しかし、その歪みにいつまでも捕らわれていては私が不幸だ。
そういえば、私はあのテレビゲームを捨てられたとき、「そうか、ようするに勉強さえしていればいいんだろ?だったら、やってやるよ。そして、いつか偉大なマンガ家になっておまえを見返してやるよ」みたいな復讐心に燃え上がったことを覚えている。その復讐心がまずいのかもしれない。長いものに巻かれながら、長いものを倒す、みたいな。まだ私は中学生なのだ。卒業しなければ。
そうか、「卒業」だ。
卒業すれば新しい世界が待っている。
しかし、私は小説家を諦めようとは思わない。
最近書いた別の記事に、怒りや憎しみで小説は書かないと決めたと書いた。しかし、今回のこの記事で私はまた復讐心で筆を進めてきた。要するにそういうのから卒業することが大事なのだ。
我々が誰かを否定するとき、ほぼ絶対に、我々はその誰かの一側面しか見ていない。父を否定しようとしていた私は父の保守保身の在り方のみをクローズアップして見ていた。父のその一側面は許すことはできないが、他の部分も見るべきかもしれない。
そうだ、私は父とか中学教師とかのことを考えるときだけ、怒りや憎しみで考える癖がある。他のことについては多面的に冷静に見ることができるのに、父と中学教師についてだけ熱くなることがある。それがいけない。
ここで私は平野啓一郎の「分人主義」の考え方に思いが至った。「分人主義」はまさに人を多面的に考える思想である。そして、平野啓一郎は、『死刑について』という本も書いている。彼はこの本で「分人主義」の「ぶ」の字も出していないが、「分人主義」の思想が、殺人被害者の家族として「犯人を許すことはできない、しかし、死刑までは望まない」という考え方に至らしめていることは想像に難くない。
私も「父のやったことを許すことはできないが、父の存在を全否定はしない」と考えることにしようか。
 
*こう書いてきて思うのは、「俺はいつまで反抗期をやっているんだろうな」というアホらしさだけである。

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