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統合失調症の私、近くの低山に登る

統合失調症者にアウトドアを勧める会会長に就任した翌日、私は、テントとテント泊用のザックを新しく買った。十万円以上掛かった。登山は初期費用が掛かる。今年はテント泊の山行の予定はないが、今後、夏の山小屋泊からレベルアップしてテント泊もしようと意欲が出て来たからだ。高い買い物をすると、その道具を生かしたくなるのが人の心だ。
さて、今月末には連休があるため、そのときに、キャンプ場で一泊しようと目論んでいるのだが、その前に、テントやシュラフなどを詰めた、フル装備の新しいザックを背負って、山に登ってみようと思い立った。いつも練習で使う近場の低山だ。
低山と言っても標高五百メートルはある。海から近いため、登山口から登るとかなりの高度感が楽しめるので私は飽きることなく何度も登っている。家から車で二十分足らずで登山口まで行けるのも気軽に行ける理由のひとつだ。
今日、その山に登って来た。もちろん新品のザックにフル装備で。
歩き始めたとき、ザックのずっしりとした重さに懐かしさを覚えた。高校時代の山岳部のことだ。あの頃はもっと重いザックを背負っていた。あれから二十年でテントの軽量化が進んだことと、今日は水一リットルに五百mlのペットボトルのお茶二本、食料はカップラーメンとコンビニのおにぎりだったので実際にテント泊の山へ行くときよりは荷物が少なく、高校時代の重さよりも軽く感じたのだろう。

途中で振り返ると高度感が楽しめる

それでも歩き始めてしまえば、慣れてくる。私の登り方は、十五分歩いて一分小休止という歩き方なので、この山の場合、小休止で振り返ると下の平野が見えて高度感が楽しめる。

緑のトンネル
歩きやすい道
長い階段、何段あるのだろう?
山頂で降ろした、新品のザック

山頂まで一時間かかった。以前、軽い装備で四十分だった。最近では四十五分か五十分くらいかかっていたが、装備が重くなるだけで、十分遅くなることがわかった。こういうことも、やってみないとわからないことだ。もし、これをやらず、北アルプスなどに行く予定を立ててしまうと本当に危険だ。やってみてよかった。
さあ、食事だ。
私は薬缶とガスコンロを出して、湯を沸かした。

湯を沸かす。これがアウトドアらしくてよい

湯が沸くまで、私はコンビニで買った、ツナマヨのおにぎりをひとつ食べた。

山の上でのラーメン

湯が沸くと私はカップラーメンに注いで三分待って食べた。
この食費、ツナマヨのおにぎりとカップラーメンで二百円余り、二本のペットボトルのお茶を含めても、一本六十八円の安売りだったから、四百円しない。なんと安上がりな趣味だろう。
統合失調症の方にはおカネのない人が多いと思う。だから、私は安上がりな登山を勧める。もちろん、今日の私の山行は、登山口までのマイカーのガソリン代や、湯を沸かす道具や、そもそも、マイカーを持っていなければ登山口までさえ行けない。近くに低山がないという人も多いと思う。
そんな人に言いたいのだが、趣味は自分で見つけるものだ。自分の現在の環境の中でどうすれば楽しいことができるか。私も三十代で登山を始めたのは近くに山があり車を所有しているという環境にあったからだ。ネガティブな理由もある。単独登山は友達がいなくてもできるというものだ。友達がいないというのも、ひとつの環境と捉え、その環境の中で最大限楽しめるにはどうしたらいいかを考えて登山を始めた。もちろん友達はいたほうがいい。しかし、統合失調症というのはコミュニケーションに難があるので、私はそれを後回しにしようと思った。「私はひとりで登山に行くことを趣味としています」と言えることは、コミュニケーションのリハビリにも効果があると思った。自己紹介の手段として使えるのだ。ひとりで登山に行く人は多い。したがって、私はそれをやることでノーマルになれるという利点があった。自己紹介で、「私は精神障害者です。今は作業所に通っていて・・・」と自己紹介する人も多いと思うが、そういう自己紹介は自分にとってどれだけの利点があるだろうか?最初に「私は精神障害者です」と言うことは、そう見て欲しいということだろうか?それはその人の本質だろうか?自分に自分でレッテルを貼ることにならないだろうか?私なら、「私は登山が好きです。小説家を目指してます。二十代は肉体労働のパートをしてきました。現在は介護の仕事をしています」などとプラスのことばかり言う。小説家を目指しているとはどういうことだろう?何を目指しているかという将来の夢など誰でも作ることができるではないか。夢というのは自分を飾るアクセサリーのようなものだ。夢は持っているだけで、自己紹介に使える便利なツールなのだ。それは趣味でも同じだ。登山を趣味としていて実際行っていれば、そういう人になれるのだ。それは病気があるないかかわらず、そういう人になれる。自分とは思うだけで、あるいは行動に移すだけで、変わることができるのだ。病気が治るとかそういうことではないにしても、外側から変えることは可能なのだ。いや、外側だけだろうか?自分の外側が何であるかを認識すれば、自己イメージが変わり、内側までも変わるのではないだろうか?

下山中に見渡せる故郷

私は統合失調症の人にアウトドアを勧める。外に出れば景色がある。その中で私たちは生きている。自分の人生の中に多くの素晴らしい景色があれば人生自体もそれらの景色の中で生きているという素晴らしいものになるのではないだろうか?

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