見出し画像

陽キャ陰キャなど若者言葉と哲学や文学

私は最近の記事で、若者言葉の陽キャ陰キャという言葉を安易に使ってしまった。少し軽率だったと思う。私は大学で哲学を学んだ人間だ。私にとって哲学とは若者言葉の形作る世界観や価値観を乗り越えるためのものでもあった。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは学問を「ものに名前を付けて分類すること」と定義している。
この「物に名前を付けて分類すること」は学者でなくともやっている。例えば、私が最近使ってみた「陽キャ陰キャ」という分類もそのひとつだ。人間は人間を分類したがる。善人と悪人、美人ブス、大人子供、男女、敵味方、など。
幼児は物心ついた頃から世界にあるものに名前を付けて分類を始める。そして、多くの人がその分類は間違っているかもしれないことに気づかない。いや、気づいても深く掘り下げようとしない。「いい人」「悪そうに見えるけど本当はいい人」「いい人そうに見えるけど本当は悪い人」みたいな程度しか掘り下げない人も多いと思う。そこを掘り下げるのが哲学や文学など人文系の学問だ。「そんな学問をやって何の意味がある?」と言う人もいるかもしれない。「俺は陽キャになりたいんだ。文学など陰キャのものじゃないか」などと思って少しもおのれの陥っている事態に気づかない人もいるかもしれない。陥っている事態とは、つまり、陽キャ陰キャという言葉に囚われて、そこから出ることができないでいることに気づかないという事態だ。
自分は何者なのか、十代二十代の若い頃には当然考えるだろう。「俺は不良だ」「俺は陽キャだ」「僕はオタクだ」「私はHSPだ」「自分は体育会系だ」「私は理系だ」「私は文系だ」など、自分を分類したがる。しかし、それらは必ず外れている。人間とはそのように安易に分類できるものではない。アイデンティティはそのように言葉でラベリングして見つけるものではなく生活のスタイルでおのずと決まってくるものだ。人間の分類の数が少ないほど、安易に自分を浅い洞察力のもとに分類してしまう。洞察力を深めるためにも、人文系の本を読んでみて欲しい。先に述べたように「文学など陰キャがするものじゃないか」と考える人は伸びしろがない。私自身、中学三年生くらいまで、「読書なんてオタクのするものじゃないか」と思っていた。初めてお小遣いで活字の本を買ったのは、高校一年生のときだ。スタートが遅かった。中学生まではジャンプなどのマンガしか読んでいなかった。だから、その範囲で世間を見ていた。読書をたくさんすれば、その分、言葉を知るだけでなく「概念」を知る。「哲学の仕事は概念を創ることである」とは誰の言葉か忘れたが、哲学書を読んでみてもおもしろいだろう。私が「陽キャ陰キャなどという言葉を安易に使ったのは軽率だった」と言った意味がわかると思う。概念を豊富に持てば、世の中のイメージが変わる。例えば以前、「勝ち組負け組」などという言葉が流行ったが、それを真に受けた人は自分の哲学を持たず他人の尺度で自分の人生さえも評価することになったと思う。「草食系肉食系」なども流行った言葉で、たしかにイメージしやすいが、分類としては浅い。伝統的な言葉でも浅いものはある。私は職場の飲み会で年配のおばさんに自分がひつじ年だと告げたら、「ひつじ年の女はやめたほうがいいよ」と真面目な顔で言われた。私は初め彼女がなにかジョークで言っているのかと思ったが、大真面目で言っているのだ。その言葉のどこに根拠があるのだ?それが正しければひつじ年の女と結婚した者はみんな不幸になるのか?言い伝えや迷信を打ち砕くためにも読書が必要だ。読書と言っても、迷信を補強するような本はかえって害毒だと思う。私は読書を勧めるが、啓発本やスピリチュアルな本はあまり勧めない。まさにそれらを打ち砕くために、自分で物を考えるようになるために、哲学や文学などの権威あるものから読むべきだと思う。これは権威主義ではないか、と言われるかもしれないが、いろいろ読んでいるうちに、自分の価値観を形成出来て来るので、そうなれば権威によらず本を選べるようになる。すくなくとも若者言葉や流行り言葉に惑わされることはなくなるだろう。若者言葉流行り言葉の中だけで物を考えているようでは、真実の人生は生きられないだろう。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?