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解脱は死。フィクションと共に生きろ

解脱とは、インドの哲学、宗教によると、人生の目的である。
それは輪廻から抜け出すことを意味する。輪廻とは、インド思想には古くから生まれ変わりの死生観があって、解脱しないかぎり、永久に様々な生き物に生まれ変わることである。永久に生の苦しみを受け続けるのだ。その苦しみから抜け出す為に解脱が必要となる。
仏教では、全てを苦しみと見て、そこから解脱するのが正しい道だと説く。
だから、修行僧が、山に籠もって厳しい修行をするのは解脱のためである。私は幼い頃、マンガの影響で修行とは体を鍛え強くなることだと思っていた。仏教を知らない多くの人も、修行というと、単に体や心を鍛えることを意味すると思っているのではないだろうか?しかし、あれはすべて解脱のためである。
しかし、即身成仏という言葉があるように、生きながら仏になる、つまり解脱することは可能だろうか?
私は不可能だと思う。
なぜならば、人間は生きていくためには概念を使わねばならず、概念を使うとそこにフィクションの世界を作り、それが煩悩となって苦しみの原因になると思うからだ。
壁の上に牛の角が見えれば、人は壁の向こうに牛がいると思う。しかし、実はそれは牛から取った角を持った子供がいたずらして角だけを壁の上に出しているのかもしれない。
テレビでしか見たことのない国家元首を実在の人物と信じるのは常識であるが、実はそれがCGで作り出した幻かもしれない。
私たちは現実の多くをフィクションとして生きている。
フィクションがなければ生きていけないのだ。
これを仏教風に言えば、煩悩無しでは生きていけないと言える。
無論、仏教は解脱したら死んでも構わないと言うだろう。ブッダ自身もこの質問はたくさん受けたようだ。ブッダは教えを説いて回るという使命のために死んで成仏せずに、生きて教えを説いて回り、死ぬときに涅槃に入ると言って成仏したらしい。それでは一般の人は解脱したら死ぬべきなのか?生きる目的が解脱ならば、自死すべきなのか?
私は生きたいと思う。最後まで生き抜きたいと思う。生きていれば、概念、煩悩を使う。苦しみもあるだろう。しかし、ブッダが一切皆苦と言った人生にも歓びはあると私は信じる。
その歓びには悟りの境地のような、直接的な知覚の歓びがあるかもしれない。鳥の声の美しさ、風の心地よさ、食事の美味しさ、他にもいろいろあるだろう。しかし、例えば食事の美味しさに囚われることは苦しみの元になるとブッダは言うだろう。たしかにそれは言える。特に性愛などは強い苦しみの原因になるだろう。しかし、それらの欲望は人生には必ずあるもので、執着しなければ苦しみの原因にはならないだろう。人間は直接的な知覚の歓びとは別の、煩悩というフィクションによって苦しむのである。
しかし、煩悩をフィクションと私は言い換えたが、フィクションとは普通、物語などで使われる言葉だ。物語にはハッピーエンドもあるし、途中に楽しいシーンもある。それは人生そのものではないだろうか。人生を楽しいフィクションを作るように生きられたら、必ずつきまとう欲望とともに素晴らしい人生を生きられるのではないかと思う。苦しいこともあれば楽しいこともある。当たり前のことだ。
インド思想のように死ぬと輪廻すると捉えずに、死ねば皆、解脱すると捉えて、生きている間は、フィクションと共に、良い人生を生きるのが本筋だと思う。フィクションという言葉を私がことさらに使うわけは、それが自ら作ることが可能なものだからだ。人生を共にする、世界観人生観という大きなフィクションは自分で作れると思えば、私たちは自力で良い人生を生きられることになるだろう。そのために物語芸術などがあり、私たちは小説を読んだり、映画を観たりして、人生を豊かにするのだ。


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