観劇記録 劇団肋骨蜜柑同好会「2020」

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エーリッヒ・フロムの本を読んでいるタイミングでこういう芝居を見ると、あたかも世界が自分を中心に回っているのではないか?と錯覚してしまう。めぐり合わせと言うやつだろうが、思考が散らからなくて良い。そうか?まぁこの本を読み終えたら演劇やドラマにおける役割の話も交えて何かnoteに書こうと思っていたのでちょうど良いというだけの個人的事情だ。

まず俺は「これは○○(政治家某の名前)肺炎と呼べる」などとTwitter上で発言するフジタと政治的な思想は微塵も相容れない。そのスタンスは嫌いだが、それはなにも彼に限った話ではない。俺がこよなく愛するあんっ♡ハッピーガールズコレクションの主催とも政治的な思想は相容れないし、何なら創作してる人間と政治的意見の一致をすることは基本的にない。そういうものだし、だからと言って彼らの作品を見ないと言う話しでもない。それはそれだ。彼らも俺の発言や思想は気に入らんだろう。

ヒロトやマーシーがTwitterをやっていなくて良かったと思うし、好きな作家のアカウントは絶対にフォローしない。園子温はブロックした。新作情報などはどうにか流れてくるだろう。作中の厭味ったらしい部分についても飲むよ、それでもその作品を見るんだと言うスタンスでいる。

つまり本作に於いても割と厭味ったらしく見える部分がある。話が長いと言われるが、丁寧に話すとどうしても長くなる。

人間は孤独を回避するために社会的役割を得て生きていくが、その代償として自己の自由を差し出す。社会的生物である以上、多かれ少なかれ自己を差し出して社会の中で役割を得て孤独と無力感を回避しながら生きている。
社会の規模はそれぞれで、それぞれの社会の中でそれぞれの役割がある。また何かの社会でうまく立ち回れなくなった場合、別の社会に属する事で新たな役割を得ると言う状態であるのが基本だ。

演劇と言うのも小さな社会を作りそこで役割を得て実行していく作業のひとつであると考える。そこには明確な存在理由があり、基本的には絶対に必要な存在となる。よって役者は舞台の上にいる限りは孤独でないし無力感に苛まされることもない。
その代わりに自由を差し出している。本来なら遊べた時間、精神力などを差し出すことでその役を得ている。だがそれは決して服従ではない、積極的な「自由からの逃避」であると言える。エーリッヒもそういうだろう。

本作には人間社会から離れてた共同体がある。そこには強権による支配が無い(よって権力に対する依存は存在しない)が、自他の境界が曖昧な人間たちが棲んでいる。ただ何かの管理下にあり、つまり何らかの役割があり、自由のかなりの部分が制限されている。
ここで問題なのは、生まれながらにして持っている自由の大部分を差し出す代わりに「得る」ものが無いという事だ。

ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」には【人は生まれながらにして持っている自由をなるべき早く誰かに渡したいと言う願望以外には何も持っていない】と言うような一説があるようだが、それにしたって本作の小社会は個人の自由を渡して得るものが無い。
強権に対する依存でもなく、また曖昧な役割を得るにあたって支払う代償があまりにも大きいのでそれは何かが見えない。役に徹し切れていない人物も散見し、つまり現実的に上演され続ける「役割」を全うしきれていないし、「役割」は孤独や無力感からの解放をしていない。それは果して役割なのか?つまり社会として成立しているのか?

そもそも「役割」を与える「社会」は存在するのか、と言う話でもあるんだろう。
だが「それ」が舞台上で進行する、と言うのはどういう事か。演劇とは自由を差し出して新たな役割を得るシステムである以上、孤独や無力感から救うことができる。それが存在しないシステムは果たして演劇なのか?
そのシステムから逃避した先にある社会で自己を取り戻す(可能性がある)のであれば、演劇こそが自己を奪い孤独や無力感に陥れる支配ではないのか。演劇が支配であるなら、彼ら出演者はそのシステムに隷属する立場の人間であり、そして観客を支配する事で孤独や無力感からの逃避を図っているのではないか?

しかし演劇は上演されるにあたって観客がいることを前提としている。相互に依存したサドマゾの状態だ。つまり支配と服従の関係にない。
そうであるなばら上演されない芝居こそが支配と服従なのではないか?

作中の登場人物は基本的に市民服とでも呼べるようなお揃いで地味な衣服を着ている。自他の境界を曖昧にする社会主義的なアイコンだ。そして食事は配給である。社会主義的だ。だが強権は存在しない。支配も無い。ただただそうあるだけだ。自己の喪失を推し進めているようだが、共同体の人間たちは基本的に孤独であり無力であることに気づきつつ、見えていないふりをしている。つまり失敗しているのだ。「役割」になっていない。

また作中では「禁止されていないが推奨もされていない」と繰り返される行為がいくつかあり、そこらへんを俺は厭味ったらしいと感じるが現状に対する認識の差異であろうから気にしても仕方ない。本国は何事も自由に発言し、表現できる(それに対する批判は批判であって口封じではない)。
フジタの狙いはわからない。わからないが何等かの批判であることは確かだし、俺はそれに賛同しない。認識の差異の話であって正誤の話ではないからそこに決着を見る必要もない。

そもそも人間は孤独であり、同じ言語で話せてなどいないのだ。これを読んだあなたも俺が何を言っているかわからないだろうし、俺もあなたが何を言っているかわからないだろう。口を封じられていようがいまいが同じなのだ。阿吽の呼吸は存在しない。スタンドプレーの結果としての連携、連帯がそこにあるだけだ。
愛情と言う形でサドマゾ的な相互依存、共棲状態にある事は孤独や無力感からの一時的な逃走になりえても根本的な解決にはならない。劇中でもそれは外圧(暴力)によって証明される。

そこにも問題を感じた。
その外圧を形成しているのは絶対的な権力じゃなく、概念に依存した人間たちなのだが、彼らは共同生活の人間を支配をしている。ここら辺は上位カーストの社会主義的な存在なのだが、そうなると下位の人間は単に搾取される側の人間となる。システムは成立しない。ナチスドイツだって他国や他の少数弱者を支配する事で成立していたのだ。
つまりある種の権力依存をしている層と、彼らが支配する層は分裂しているのだ。分裂しているので役割が曖昧になっていて、だからこそ脱落者が出る。

脱落者に対する処罰はいろいろな事を思い出すが、自己批判的なものではなく他罰による矯正であることを見ると、社会主義的とも言い切れない。
そうなってくるとあの集団とは何なのかとなり、ひいては劇団とは何なのかと言う事になってくる。
役割、役割、役割からの逃避。
役割からの解放は自由と同時に孤独と無力感を与える。
その自由、孤独、無力感と共に生きることに回帰するのであれば、やはり演劇とは何なのだろうか。現実社会に生きるにしても同じことが言えるという構造であるのは明確だ。

少なくとも我々観客はそれを見る「役割」がある。実社会で「他人の役割を見る役割」は存在しない。そして彼ら出演者は「役割を演じる役割」の立場にある。もう何が何だかわからなくなってきた。最初からわかっていることなどないのだ。そう、人間は孤独であり無力であり同じ言語で喋れていることなどない。


だが自由だ。孤独であり無力感に苛まされながらも自由だ。役割からの逃避だ。俺は小動物を支配しない、俺は恋人と言う存在を拒絶する。俺の自由は俺のものだし、俺の孤独や無力感は俺のものだ。俺は役割から逃避し続ける。しかし見る役割は今後も担っていくだろう。もうダメだ。

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