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Re: 【小説】オサムが死んだ イケダさん

 店内の喧騒が遠く、他人事に聞こえる。
 目の前に座っている男は所在なさげに壁に貼られたメニューを眺めているようだった。
 オサムが死んだ。
 男はそう言った。
 オサムと言う人間が誰であったか記憶を遡っていくと同時に、私は目の前の人間に心当たりがあるかどうかも考えていた。


 駅から伸びる坂道に沿って立ち並ぶ細い商店街にある店のひとつ。地元にあるのは知っているが、今まで一度も入った事のない店だった。
 その古びた食堂で知らない男と対面している。
 駅を出てすぐの坂道を登りきる途中で私に声をかけてきた。
 名前を知っていた。ナンパではない。
 だが私の記憶にはない。
 胡散臭い男のそれを断ろうにも断りきれなかった。
 ──と言うより、家までついてこられても迷惑なので仕方なしと言った具合だ。

 
 前掛けをした女将が注文を取りに来た。
 長居する気は無い。
「すぐに出るのでお構いなく」
 じゃあおれはウーロン茶お願いします、と男は壁のメニューを眺めた姿勢のまま私を遮るように言った。
 女将は怪訝な顔をしたが、対面に座る男の風体の怪しさも相まってか何も言わずに厨房へと戻って行った。
 そう、すぐにでも帰りたい。
 私はこの男の事を知らない。
「それで」
 私に何の用なんですか、そう訊いてからグラスの中のぬるい水をひとくち飲んだ。
「いや、用と言うよりは」
 オサム、死んだので。
 小声でそう言った男は、壁のメニューに向けていた視線を商店街の小さな三差路に差し替えた。
 男がかけているサングラスには商店街の様子が歪んで映っていた。
「だからそのオサムって」
 誰なの。
 そう言いかけたところで急に思い出した。


 私の弟が通っていた小学校。
 その同級生の兄。その繋がりで、何度か大きな集まりで顔を合わせた事がある。

 厭な記憶と言うほどでもないが、特に思い出すほどの何かもない。
 取るに足らないと言う感覚以下の、単なる思い出だった。
「あぁ、あのひと」
 あのひと、と言うには今の様子を知らないし、かといってあの子と言うには自分も歳を取り過ぎている。
 確か同年代だったはずだ。
「知ってますよね」
 男はようやく顔を私に向けた。
 男のサングラスに歪んだ私が写っている。
「知っていると言うか」
 まぁ、知り合いではあるけど。
 本当にその程度だ。
 いまは連絡先すら知らないし、そもそも連絡を取っていたのもあの頃に一瞬だけの話だ。

 ──この男はそれをどうやって知ったのか。
 私の事もどうやって知ったのか。
 気持ちが悪い。
 この男も、オサムもだ。
「そのオサムくんが死んだことは分かりました。だけど、どうして私にそれを」
 私が訊くと男は俯いて
「いや、特に理由は無いです」
 と答えた。

 その瞬間に思い出した事がある。
 それは20年も前の話しだ。
 あの時、オサムも私にそう言ったのだ。
 私を呼び出したオサムは「好きです」と言った。
 確かに漫画やCDの貸し借りは何度かしたけれど、それだけだった。
 ふたりでどこかに遊びに行ったこともないし、メールだけで電話をしたこともない。
「どうして?」
 私はそう訊くと決めていた。
 もしも私を納得させるだけの答えがあれば、少しくらいは考えても良かった。
 けれどオサムは
「特に理由はないです」
 そう言って照れたように笑った。

 私が予想していた答えのひとつだった。
 好きになったから、可愛いから、貸してくれた本やCDが良かったから。
 でもそれすら言えなくて、理由なんてないと言ってしまう。
 確かオサムは男子校に通っていると言っていたから、慣れも免疫がないのも分かる。
 オサムの緊張と照れは、見ている私にも伝わるくらい激しく酷いものだった。

 私しか知らないから私を好きになった、と言うのは時間が経って冷静な今なら分かる。
 あの頃は気持ち悪かった。
 男子校のオサムと違って共学の私には選択肢がいくつもあり、その中からオサムを選ぶ理由はない。
 チビで、突出した美形でもなければ特技がある訳でもなかった。
 セールスポイントの無い少年。
 とにかく当時は話にならなかった。
 そしてオサムとの関係はそれ以上でもそれ以下でもない。
 そこで彼に関する記憶は止まっている。
 その後は連絡も取っていない。


 そんな男が死んだ話をいまこうして知らない男に聞かされている。
 気持ち悪い。
 大体、なぜ私が今もこの街に住んでいる事をこの男は知っているのか。
 もしかしたらオサムと言う男がどこかから私を見ていたのだろうか。
 ストーカー、と言う単語が脳裏に浮かぶ。
 そうであれば、オサムが死んだ時に何か言うべきなのはこの男の方ではないのか。

 机に置かれたコップの水を飲む。
 不味い、水だった。
「理由も無く私を呼び止めて」
 なぜそんな話をするの。
 男は黙って俯いていた。
「そもそもあなたは誰なの、私の知り合いじゃないみたいだけど」
 グラスの水滴が机に広がっていく。
 男は短く息をつくと
「難しいですね、説明が」
 そう言って頭を掻いた。
「なにを知ってるの、なにを知らないの。どうやって私はここに住んでいるのを知ったの」
「質問が多いですって」
「いつから知ってたの、今日はずっと待ち伏せてたの」
「だから質問が多いですって」
「気持ち悪いわ。別にオサムくんの事で話す事なんて何もない。残念だけど」
 そういって立ち上がりかけると男は呟くように「じゃあ、そう伝えておきます」と言った。

 動きを止めてしまった。
 瞬間、しまったと思ったが遅かった。
「伝える?」
 私は不本意ながら再び腰を下ろして男に訊いた。
「伝えるって、死んだんじゃなかったの」
「死にましたよ」
 死にました。
 男は確かにそう言った。
「いつ」
「少し前ですよ」
「少し前って」
「自分も詳しい事は知らないですけど、最近」
「最近」
「最近って言うからには半年経ってないんじゃないですかね」
 この男もオサムの事を詳しく知らない。
 それなのにいまこうして私の目の前に座っている。
 そしてオサムが死んだと言う話をして、何を訊くでもなく黙っている。


 一体、何がしたいのか。
「あ、別に何がしたいとかは無いですよ」
 男は見透かした様に言った。
 腹も立つが気持ち悪さが勝っている。
「じゃあ何だって言うの」
 目の前にあるコップの水をかけてやりたい衝動に駆られる。
「だから、ただオサムが死んだって話をしにきただけです」
 どう思いますか、と続いた言葉はまるで何かの復讐みたいな陰湿さを感じさせた。

 男のサングラスに私が写っているのが見えた。
 そのサングラスの向こうには男の目があるのだろう。
 その目でこちらを見ているのかも知れないし、見ていないのかも知れない。


 気持ちが悪い。
 特に理由も無くオサムが死んだことを告げたこの男が。
 今まで思い出しもしなかった男の死を告げられたことが。


 通りすがりに肩をぶつけられた程度なら数分で忘れられもするだろう。
 だが今日のこれはそうならない。
 何日かの間、もしかしたらもっと長い間その事を忘れられずに過ごさなければならないかも知れない。


 私の人生がこの男の所為で侵食されていく。
 何の理由も無く。


 不愉快さが全身を支配した。
 男が何も言わずに席を立ちあがった。
 私の横を通り過ぎる。
 振り向くと、男はレジに向かって歩いていくところだった。
 私は机の上に置かれていた割りばしを手に掴むと男の耳の穴に突き立てた。

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