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【短編小説】上階の怒声は

 わざとらしい大きなため息を吐くと不動産屋は緩慢な動作で一枚の紙を取り出した。
「あんまりお薦めしませんよ」
 と言って、ストライプスーツの下に押し込めた全身をうんざりと駆け巡る大量の不満を出すような暗く長い暗渠の様なため息を吐いた。
 おれはその用紙を眺めながら、それがどんな事故物件なのか訊いた。
「別にその部屋そのものじゃないんですよ、告知事項があるのは」
 今どき珍しい名古屋ロールの事務員ガールが置いたコーヒーを飲んで、ストライプスーツの不動産屋は「薄……」と呟いた。
 確かに薄いコーヒーを舐めながら、おれは続きを待った。

「実際に事故があったのはご紹介している部屋の真上にある部屋なんです。そこはもう別の方が住んでいまして……まぁ、言ってしまえばその方が原因で、いまご紹介しているお部屋が安くなってるんですけど」
 どう言う事かは行けば分かりますよ、と言いながら青いストライプスーツの不動産屋は刈り上げたばかりのツーブロ頭を撫でながら立ち上がった。

 築浅のマンションは外壁に雨染みひとつなく、陰惨な事件があったとは感じさせない。
 青いストライプスーツを窮屈そうな運転席から引きずり下ろしたツーブロ頭の不動産屋は、おれが後部座席から降りたのを見るとさっさとリモコンでロックをかけてしまった。
 オレンジ色の光が二度チカチカと点滅して、辺りをわざとらしい夕陽色にした。
「ここです」
 青いストライプスーツを着たツーブロ頭の色黒な不動産は、廊下に面した窓の格子に下がったキーボックスから鍵を出した。
 おれは理系らしくキーボックスの暗証番号を見ないようにそっぽを向いていたが、たぶんこの青いストライプスーツを着たツーブロ頭の筋肉質な色黒不動産屋は気づかないだろう。

 部屋の中は広々とした1LDKで、白い壁も樹脂サッシもピカピカの新品みたいに見えた。
「この部屋に被害とかは無かったので、綺麗ですよね」
 青いストライプスーツを着たツーブロ頭の筋肉質な色黒不動産屋は便器と同じくらい白い歯を見せて笑った。だがその白い歯と同じくらい、目玉の白い部分は笑っていなかった。

「いつまでもメソメソすんな!」
 唐突に上の部屋から絶叫が聞こえた。
 おれは天井と青いストライプスーツを着たツーブロ頭の筋肉質な色黒不動産屋の白い歯と同じくらい白い目を交互に見たが、青いストライプスーツを着たツーブロ頭の筋肉質な色黒不動産屋は細い眉を微動だにもさせずに相変わらず便器と同じくらい白い歯を見せて笑うだけだった。
「それは社会のせいじゃねぇお前のせいだ!」
「それはお前が悪いんだよ!」
「考え方が甘いんだ!お前の人生はお前がケツ持つしかねぇんだよ!」
「そうだ自己責任だ!お前が決めるんだよ!」
「うるせぇ!泣いたって解決しねぇ!
「社会はお前の親父じゃねぇんだ!」
「いつまでもこんなところに残ってんじゃねぇ!」
 上の階に住む男はひたすら誰かに向かって怒鳴り散らかしていた。
 おれは天井にやっていた視線を青いストライプスーツを着たツーブロ頭の筋肉質な色黒不動産屋の丹精な顔面に付着した便器と同じくらい白い目にやると、青いストライプスーツを着たツーブロ頭の筋肉質な色黒不動産屋はその便器と同じくらい白い目の中にある穴のような黒い瞳孔を開いて「まぁ、そう言うことです」と言って便器と同じくらい白い歯で笑った。

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