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【短編小説】箸を置く

 食事の最中に箸を置くようになった。
 確かにもう育ち盛りでは無いのだから、食べ始めてから終わるまで片時も箸を離さずに喰うと言うのはどうかしている。
 しかし長らく続いたひとり暮らしは、結局のところ食習慣を直すに至らず、そろそろ不惑が視野にチラつく頃になって初めて、食事の最中に箸を置くに至った。


 そもそも早飯早糞早算用と言われて育ったのだから仕方が無い。
 男がいつまでもダラダラと食っているのはみっともない、と言う思想の下で社食に行けば常に冷やし蕎麦をたぐる事になった。
 昼餉、それも社食なぞに食事としての快楽など微塵も求めていないのでそれで構わない。
 素早く食ってさっさと戻る事を史上価値としていた。


 今日なんぞは、俺が着いた席で先にラーメンを食べていた他部署の女性社員がいたけれど、俺が蕎麦を飲み終わってもなおラーメンを箸で叩いており、汁を吸ったラーメンはもはや油そばの様相を呈している有様だった。
 麺少なめでお願いしますとも言えず、かと言って食べきる事もできず、いたずらに膨張し続ける小麦麺をその女はどうしようと言うのだろうか。


 と言うような駄話を夕餉の時にこぼした。
 当然、茶碗も箸も机に置いてある。蕎麦猪口に注がれた茶を飲んでひと息ついてから、ようやく箸を持ち上げて続きを食べた。
 鶏肉だの干した根菜だのが出汁で炊かれたそれは程よく味が染みており、俺はその味に満足しながら奥歯で噛み締めた。


 妻は満足気に食べる俺を見ながら嬉しそうに蕎麦猪口を傾けた。蕎麦猪口の中には葡萄酒が注がれいたと記憶している。
「それで決まりましたか?」
 妻は俺に訊いた。
「あぁ、その事なんだけどね。やはり店屋物は皿を回収に出せないし、弁当なんかもゴミが出るだろう?やはり、ハンバーガーとかピザとかなんてのが良いと思うんだけどな」
「でも折角、練炭を焚くのだから秋刀魚とか松茸なんかをいただきたいと思うのですが」


 箸を置きながら、まぁそれもそうだな、と相槌を打つ。
 個人的には缶コーヒーと煙草さえ有れば良いのだけど。
「じゃあ塩むすびとかにしようか」
「缶コーヒーと塩むすびでは合わないのでは?」
「デザートだから別腹だよ」
 俺は箸を持ち上げて再び鶏肉と根菜の煮物を口に放り込んだ。
 妻は満足気に葡萄酒を傾けた。

 煉炭は週末に届く。

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