ぼくの非正統的学習法。友達から学ぶこと。(無駄なあこがれが消えたときから、まともに考えることができるようになる。)

対象が哲学であれ、アートであれ、服飾であれ、料理であれ、あこがれがあるうちはなんにもできない。あこがれにふりまわされて、右往左往するばかり。「いつか王子様がやってくる」なんてことをあどけなく期待しているうちは希望はない。無駄なあこがれが消えたときから、まともに考えることができるようになる。ぼくは必要なことのほとんどを友達から学んできた。ぼくはあれこれ雑多に本を読んできたものの、本から学んだことはほとんど概念の扱い方と文章の書き方だけだ。



たまには自分のこともお話ししましょう。ぼくはコドモの頃から、音楽と料理と絵を描くことと本を読むことが好きだった。そんなぼくは瀬戸内の工場のある田舎町の少年だった。時は後期昭和、高度成長期である。セメント工場やガス工場の煙突からはもくもくと煙が立ち昇り、町には住人よりもカエル方の方がよほど多かった。ぼくはギターを弾いて、雑多に本を読み遊んでばかりのバカだった。小学校時代の女先生はなぜかぼくをかわいがってくれたものの、彼女は皮肉っぽくぼくを「文句たれ」と呼んだ。中学校の学園祭でぼくはフォークギターで弾いて流行のフォークソング歌を歌った。褒めてくれたのは国語の先生だった。なお、ぼくが学校の勉強で好きなのは英語だけだった。当時の中高生にとって、英語は広い世界とつながることのできる唯一の道具だった。しかもぼくにとって英語はかっこいいロックンロールを理解することにも役立った。ひとつ単語を覚え、ひとつ文法規則を身につけるごとに、ロックンロールの世界は田舎の少年に身近になっていった。


ぼくははやく田舎町を出て広い世界を見たかった。大学進学がもっともてっとりばやかった。ぼくはヴィジュアル・アート系の大学に進みたかったけれど、しかし美大進学もいくらか都市の文化であって、ぼくはデッサンを学んだこともなく、また時代のヒーロー、アンディ・ウォーホルの仕事はおよそデッサンとは無縁だった。



けっきょくぼくは東京の大学で英文学を学ぶことを選んだ。しろうと劇団にも加わって、シンセサイザーで作った音楽を提供したり、ほんの3回だけながら役者としても舞台に立った。(若いおかまの役だった。)当時ひょんな出会いから当時泣く子も黙るグラフィック・デザイナー奥村靫正さんの工房に出入りするようになって、ぼくは浅草橋の睫毛屋さんが作る各種美容グッズのパッケージに添える商品説明の英文を書いておこづかいをもらうようになる。やがて編集者の仕事もするようになる。



なお、この時期、ぼくはアマチュア・バンドを組んで、自作の音楽を作るようになる。当時は(まだその言葉はなかったけれど)ポストパンクの時代で、ぼくらは内向的で詩的な音楽を作った。ぼくはニューヨークのバンド、TELEVISIONをいくらか参考にした。ぼくは作編曲とヴォーカルを担当した。ぼくはバンドに架空庭園という名をつけた。名前だけはいまも気に入っている。



メンバーのなかに多摩美の油絵科の学生が3人いて、ぼくはかれらを通じて、当時の多摩美の教育の癖を知ることになる。ぼくは美大の教育に絶大なあこがれを持っていたけれど、しかし、内情を知ってしまえば、あ、なるほど、とおもった。ロスコとポロック、ひいてはモノ派の枠組に学生たちを閉じ込めることが当時の多摩美油絵科の教育だった。東野芳明先生が多摩美のスター教授で、教授室にドラムセットが置いてあるという噂だった。みんな似たような平面構成の作品を作っていた。(もちろん美大には学校ごとに教育の癖があって、教育方針もさまざまである。)



ぼくらのバンドは渋谷のラママの舞台にも数回立ったものの、結局、メンバー間の音楽的方針の違いともつれ、そしてなによりも仕事が忙しくなったことによってバンドは解散した。ぼくは広告やら編集やら文章書きやらの仕事を雑多にやるようになった。ライター&編集者として坂本龍一さんと知り合えたこともありがたかった。初期に坂本さんがぼくのことを「忌野清志郎にあこがれるバカな若者のひとり」だとおもったに違いないけれど、あるときぼくの書いた坂本さんのライヴレヴューを坂本さんが読んで、それ以来かれはぼくをひとりの人間として認めてくれるようになった。坂本さんは音楽についてぼくが感じる疑問を快くなんでも教えてくれた。ぼくは訊ねたものだ、「古代ギリシアの再現音楽って、なんなんですか、あれ?」すると坂本さんは微笑んで答えてくださった、「あ、あれ聴きました? 古代ギリシアの音楽があんなつまんないわけないですよね。」もっとも、坂本さんはときにおっかない人でもあったけれど。



バンドが解散して、ぼくは編集者およびライターの仕事をやるようになった。当時そんな言葉はなかったけれどJ-POPの月刊誌を創刊から2年間編集者&ライターとして関わり、写真の多い雑誌とはいえ250ページの雑誌に120ページほどはぼくが取材し原稿を書くようになった。ゼネコンのPR誌も、経済系新聞の学生向けPR誌も、カルチュア系ムックもなんでも取材し、原稿を書いた。ぼくが文章を書くのがやたらと早いのはそのせいだ。


あるときぼくは心が壊れそうになる経験をした。すべての言葉が邪魔くさくなったぼくは、写真に救いを求めた。きっかけは友達に写真家がひとりいて、しじゅう遊んでいたこと。かれがぼくに写真でも撮ってみれば、と勧めてくれたからだった。3年後ぼくはアート系の写真家になって、ファッション雑誌で映画監督や俳優さんのポートレートを撮ったり、京橋の有名ギャラリーで招待作家として一カ月間個展を開いたこともある。結局その後ぼくは(忙しいうえロクにカネにもならないことだし)職業写真家を辞めてしまったけれど。しかし、数年間写真に没頭したことは、あきらかにぼくの物の見方を変えた。ぼくは言葉の外の世界を知った。絵を見ることがいっそう好きにもなった。



似たようなことはぼくの料理知についても言える。ぼくがフランス料理についての見方を身に着けたのは00年代後半のミクシィで、2人のフランス料理人と知り合ったことがきっかけだった。(その後、さらに半ダース以上のフランス料理の料理人と交流が生まれた。)それまでぼくは辻静雄さんの本の愛読者だったものの、(哀しいかな)実食経験は格安ビストロだけだった。しかしかれらとの出会いをきっかけにレストラン・フレンチはがぜん身近になっていった。かれらはぼくのために料理を作り、ぼくはその料理を言葉にしてミクシィにアップロードした。かなり緊張したものだ。なにせ、プロが読むことを前提にレヴューを書くのだから。しかし、その繰り返しのなかでおのずとぼくはフランス料理の構造とその現場を知っていった。かれらはぼくについて言う、「スージーさんはフランス料理の裏口入学ですからね。ふつうは恵比寿のロブションで大枚払って食事したり、軽く百万円は使って遠回りするものなんですよ。」
2006年にぼくは「古代ローマの饗宴」なる80数名参加の大食事会を主宰した。古代ローマの再現料理を数品含み、羊3頭をさまざまな料理で食べ尽くす盛大な食事会だった。当日は作曲家のPiramiさん(山田真由美さん)が新作初演のピアノ音楽を演奏してくれた。いかにも作曲家のピアノ演奏で、彼女の解釈した凛々しくダイナミックに詩的な古代ローマが音楽になって食事会に気品を添えた。


同時に、この時期ぼくはミクシィを通じて数人のアマチュアインド料理人とも知り合った。かれらのインド料理への情熱はぼくにも感染した。00年以降ぼくは西葛西に住むようになって、やがてインドレストランが増えてゆき、ぼくはご近所づきあいをするようになって、インド料理はさらにいっそう身近になっていった。



また、最近ぼくはすばらしい鮨職人と知り合った。このごろぼくの話題に鮨が多いのはそのせいだ。



考えてみれば、(自慢にもなんにもならないけれど)ぼくの学習はすべてが偶然の出会いによってなされた。すべては友達から学んだものばかり。ぼくが正統的に学んだものなど、せいぜい英文学を学部で学んだていどのこと。しかも、その英語さえも使うことにためらいがなくなったのは、中年期ほんの十日ばかりのインド滞在と、そして在日インド人の友達たちとつきあうようになってからのことだ。



友達とつきあって友達から学ぶ。ぼくのこんな非正統的な学習論が、あなたに役立つかどうかはわからない。おそらくこれは人間のタイプにもよるでしょう。ぼくがまったくもって学校向きの人間でないことがわかる。したがって、同じような人にだけはなにかのお役にたてるかもしれません。


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