インド人は祭りを本気で熱狂的に楽しむ。では、ぼくらはどうだろう?

なお、ここで言うインド人とはインドの8割を占めるヒンドゥー教徒のこと。たとえば春の祭りホーリーは、誰もが出会った人に色粉をかけあって、誰もが色まみれになって無邪気に楽しむ。秋の祭りディワリは、2週間まえから人々の挨拶は ハッピー・ディワリになって、テレビには華やかなディワリ告知CMがあふれ、ヒンドゥー教徒たちは家族や大事な人に贈り物をキラキラに包装して贈り合い、当日は夜空に花火を連発し、ガキどもは爆竹を投げ合ってはしゃぐ。ヒンドゥたちはみんな祭りが大好きで、夢中になって楽しむ。こんな先進国はたぶん他にない。



いいえ、日本だって博多の人は山笠の本気を自慢する。関西人は岸和田だんじり祭りの狂暴を誇る。高円寺市民はなぜか阿波踊りに熱狂し、当日のあの街は大群衆になる。なるほど、それはそうかもしれないにせよ、しかし、インドはあの広いインド全土で、14億人だかの人間が(ヒンドゥーだけをカウントすれば、2割差し引いたとしても)祭りを熱狂的に楽しむのだ。リオのカーニヴァルもまた同様かもしれないけれど。



しかし、日本を含む多くの先進国ではもはやむかしながらの祭りは形骸化し、観光客向けのものに成り下がっている。だからこそ、世界の都市民はハウスミュージックのイヴェントへ行ったり、ロックのライヴに出かけたり、はたまた夜クラブにでかけたりなどして、インディでローカルでアングラな祭りを楽しむ。社会学者ならばそこに地域共同体の崩壊を見るでしょう。しかし、そんなことより大事なことは、どんな時代にあっても、ぼくらは自分を解放させる祭りを必要としていること。ぼくはどんな祭りを必要としているだろう? そしてあなたは?


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