見出し画像

文章の書き方を学んだら、いつの間にか振り出しに戻っていた

 10月のはじめ、わたしは九州の片田舎からはるばる神戸まで舞台を観に行った。10か月ぶりに観た推しはかっこよくて、きれいで、いきいきとしていた。きみは家族を皆殺しにされた復讐者の役をやっていたけれど、どこかやさしさをまとっているように感じられた。

観劇の翌日、公演を観た感想を書こうと引出しからレターセットを取り出した。2行目に作品名を書き込んだあと「開幕おめでとうございます」と文章を続ける。何の話をしようと考えた途端、そこからぴたりと手が止まってしまった。言いたいことは山ほどあるのに、どう繋げたらいいのか分からなくなったのだ。


 手が止まるのには理由があった。舞台を観る1か月前、わたしはとある文章講座を受講していた。「こころをときほぐす書き方を学ぶ」ことが趣旨の教室だった。想いを綴るあたらしい書き方を、わたしはこのひとつきで学んでいた。

事実をありのままに描写し、型にあてはめて淡々と書く「昔のわたし」と、誰かを想ってやさしく書き綴る「いまのわたし」が、頭の中で綱引きを始めたのだ。

「前の書き方がベストだよ!」と昔のわたしが言う。「いいや、せっかくあたらしい書き方を知ったんだ。そっちを試そうよ」といまのわたしが提案する。筆を持つわたしは手が止まる。

昔のわたしといまのわたしがやじろべえのように行ったり来たりして、たかが1通の手紙を書くのに1週間もかかった。


 書き上げたあとにも難関があった。いつもなら書き終えた達成感でスパッと閉じる封が、今日に限って便箋に折り目をつけるのすら怖く感じられた。不安になって文面を読み返すも、何も変なことは書いていない。むしろ、やさしい書き方のおかげで文章がやわらかくなって、すっと心に入ってくる。

なのに便箋を封筒に入れるのも、表に宛名を書くのも、出来上がった手紙をポストに投函するのさえも怖かった。見えない手にからだじゅうを押さえつけられている感じがした。だけどいくら考えても理由が出てこなかった。

わからないのなら前に進むしか手はない。わたしは意を決して、ポストの口に手紙を押し込んだ。

わたしの両手から長方形の紙が離れていく。赤い箱のなかに落ちたのを確認して、差し出し口から指をはずす。かたん、と無機質な音が響いた。その音を聞くと、さっきまで全身を覆っていた不安が嘘のように去った。もう後戻りできないと頭が理解したのだ。帰り道はすこしだけ足取りが軽かった。手紙は数日経って、きみの事務所に届いた。


 執筆教室から離れてみて、あのときわたしに覆いかぶさった、理由のない不安にようやく答えが見つかった。

きみは情に厚いながらも、自分が気持ちを受け取ることを極端に嫌う。まっすぐに愛を伝えると、むずがゆくなって逃げ出すきみに、わたしは読んでも負担にならない文章を編んでいた。昔から、きみのことを考えて手紙を綴っていたのだ。

人に伝わりやすい文章が書きたいと思って講座に参加したのに、結局、振り出しに戻ってしまった。あたらしい書き方と前の書き方、どちらが正解かはわからない。でもこれからも書き続けてみて、ちょうどいいあんばいを見つけていけたらと思う。


ここまで読んでくださってありがとうございます!もしあなたの心に刺さった文章があれば、コメントで教えてもらえるとうれしいです。喜びでわたしが飛び跳ねます。・*・:≡( ε:)