ライオンの爪切り

10数年前のちょうど今時期、ライオンの爪切りを手伝ったことがある。たった一度の経験だったが、強烈に僕の心に残っている。


大学一年生の夏休み、動物園獣医師に興味があった僕は、地元の動物園への実習を申し込み、1週間の飼育実習をさせてもらうことになった。当時、大学デビューをはきちがえた僕は丸坊主だった。実習中は大学名がプリントされた真っ白なつなぎを着て、ゴム長靴を履いていたため、囚人あるいは電波系の宗教信者のように見えたことだろう。そんな風体を面白がってくれたのか、飼育員の方はとても気さくに話しかけてくださった。

「おい実習生。イグアナの採血見るか?」
「おい実習生。シロクマに餌やってみるか?」
「おい実習生。ツキノワグマの運動場入ってこいよ」

最後のも冗談として本当に言われた。もちろん僕は「無理です」と断ったのだが、少し残念そうな顔をして、「やっぱり普通そうだよな。この前来た女の実習生が、ものすごくクマが好きで、『死んでも文句言わないので運動場に入れてください!』って言い出してさ。流石に入れさせなかったんだけど、なんだか少し嬉しくてさ」と言われ、己のノリの悪さと破天荒さの欠如を呪った。

そんなこんなで実習が進んでいく中、近日中にライオンの爪切りが行われるという話を聞きつけた。猛獣担当の飼育実習は予定になく、本来であれば見学はできなかったのだが、ぜひ見学させてほしいと頼み込み、見学させてもらうことになった。クマで見せたノリの悪さの挽回である。

ライオンは平たく言えば大きな猫であり、猫同様に爪を研ぐ。本来であれば切る必要などないのだが、飼育下のライオンは爪を十分に研ぐことができずに伸びすぎてしまうことがあるため、この動物園では健康チェックもかねて定期的な爪切りを行っているそうだ。猫の爪切りならば膝の上に乗っけてパチンパチンと切ればよいが、ライオンではそうはいかない。麻酔をかける必要があるのだ。

動物園で麻酔、と聞くと、まっさきに麻酔銃や吹き矢を思い浮かべることだろう。しかし実際にこれらのアイテムが使われる機会はあまりなく、動物が脱走した場合など、有事の際にしか使われない。ちなみにこの動物園では麻酔銃が大活躍した経験が2度あるのだが、この話はまた別の機会にとっておこう。
 さて、麻酔銃を使わずにライオンに麻酔をかけるにはどうすればよいか。トラの屏風ならぬライオンの麻酔である。

答えは簡単。直接お尻に注射器で刺せばよいのだ。

言うのは簡単だが、百獣の王の背後を取るなど至難の業である。ライオンだって注射はイヤだ。当然すんなりとは打たせてくれないだろう。そこで登場するのがスクイーズゲージと呼ばれる、格子状の檻だ。

画像1

スクイーズゲージは、ハンドルを回すことで檻の片面が少しづつスライドし、中にいる動物を挟み込むことができる。これにより動物は振り向くことができなくなり、安全な採血や麻酔を可能にする代物だ。

スクイーズゲージへの誘導には猛獣舎の構造を利用した。猛獣舎の通路は高床式になっており、運動場から獣舎へとつながる道の下を動物が、上を飼育員さんが歩き、上の通路に運動場と獣舎への扉の開閉スイッチがついている構造になっている。これにより、扉を開けたら猛獣とばったり出くわしちゃう、なんてことが起こらないようになっている。そこで今回は、予め獣舎への扉の前にスクイーズゲージを設置しておき、運動場から獣舎へとライオンを誘導し、檻へと入れてしまおうという作戦だった。

図1

扉の前にスクイーズゲージが設置され、運動場の扉が開けられ、ライオンが獣舎へつながる通路へゆっくりと入ってきた。ライオンは獣舎への道をいつものように歩きはじめた。このまま、檻への道をすんなりと進んでいくかに思われたが、半分を過ぎたあたりで急に立ち止まり、通路をウロウロしだした。あっさりと作戦がバレたのだ。バレてしまったからにはなんとしてでも檻に入れるしかない。通路の上から音をたて、ライオンを檻へと追い立てていく。しばらくライオンは抵抗したが、やがて諦めて檻へと収まった。

あとはハンドルを回すだけで大丈夫。ではなかった。
半ば強制的に檻へと入れられたライオンは気が立っており、檻の中でもしきりに動いているため、このままハンドルを回すとライオンが怪我をしてしまう危険性があった。

そこで、金属の棒をライオンの首元や手足の間に通し、スクイーズゲージの格子部分に差し込むことで、動きを制限する方法をとった。棒を持った飼育員さんたちが、黒ひげ危機一発よろしく棒を差し込んでいく。

少しづつ動きが制限されていく中、ライオンが吠えた。

その咆哮は言葉では表せないほどに太く、恐ろしく、飼育員さんたちの手が一瞬止まるほどのものだった。檻越しとはいえ、肉食獣の咆哮を音というよりも空気の振動としてダイレクトに聞いた僕は呆然としていた。恐怖で動けないなどと表現するが、僕はまさにその状況だった。

その後、無事スクイーズゲージが締まり、麻酔がかけられ、処置が始まった。先程までのライオンの威勢の良さはなくなり、ぐにゃんとしていた。処置は滞りなく進んでいった。

ライオンの爪は太く、固く、割り箸をニッパーで切っているかのようだった。

前足が終わり、後ろ足の爪を処置している最中、ライオンの手を触らせてもらうことができた。襲われることはないと分かっていたものの、先程の咆哮が耳にこびりついたため、僕は恐る恐る近づき、慎重に手に触れた。ライオンの手は大きく、重量感があり、肉球はゴワゴワしていた。

程なくして処置が終わり、その日の僕の実習が終了した。実習終了後に動物園を一周することを習慣にしていた僕は、いつものように園内を一周し、いつものようにチンパンジーに糞を投げられ、カルフォルニアアシカに挨拶して家路についた。


以上が僕のライオンの思い出だ。こうして書いてみると、ライオンへの恐怖のせいか、処置部分のボリュームがとても薄い。単純に学術的な知識の乏しさからくる注意力と観察力の低さのような気もするが。今ならもっと色々と観察し、質問していたように思う。

麻酔は何使ったんだろう?猫だしケタミンかな?前投与薬つかってたっけ?
覚醒どうやってたっけ?アチパメゾールとか拮抗薬入れてた?
エマージェンシー用の薬とかって何用意してたんだろう?
こういう処置の事故例とかってあるのかな?
こういう処置ってどれくらい勝手にやっていいんだろう?
何で爪切ってた?その日の食事どうしてたんだろう?

などなど、挙げていくときりがない。己の未熟さが悔やまれるものの、雄ライオンに数メートルの距離で吠えられ、肉球を触った経験は僕にとっての一生の思い出だ。動物園のライオンはダラダラとしていて、いまいち迫力を感じないという人もいるだろう。本稿がライオンの名誉回復の一助となれば嬉しい限りである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?