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【小説】病院ねこのヘンナちゃん⑦(プロローグ)

これまでのお話:アタシは漢方クリニックに保護されている子猫。助けてくれた優紀君のお母さんは、アトピーで手がボロボロだった。だけど体の症状以上に大きな苦しみを抱えているみたい…。優紀君とお母さんは、大切な人を亡くしちゃったんだ。ヒヨコ先生、教えて。大好きな人を慰めるには、どうしたらいいの?アタシになにかできる?

病院ねこのヘンナちゃん①

病院ねこのヘンナちゃん②

病院ねこのヘンナちゃん③

病院ねこのヘンナちゃん④

病院ねこのヘンナちゃん⑤

病院ねこのヘンナちゃん⑥


葬儀の日、喪服に身を包んだ美祈さんは、優紀君の手を引いて火葬場の庭に出た。

ぼんやり空を見上げると、粉雪がちらちら舞っていた。

夫は死んで、その体は焼かれて灰になる。

いなくなってしまったんだ…。

でも全然、実感がわかなかった。

だってだってだって!

優紀の入学式を、指折り数えて楽しみにしていたじゃない。

最近少し太ったからスーツのズボンが履けるかなって、心配してたじゃない。

考案した春の新メニューが採用されて、はりきってたじゃない。

アウトドア用品を揃えてキャンプに行こうって、計画してたじゃない。

ディズニーランドや海水浴や野球観戦の約束もしたじゃない。

そろそろ優紀に弟か妹を…って、照れくさそうに耳打ちしてきたじゃない。

そして、どうするの、オムライスの店は?

そして、そして、どうしたらいいの、これから私は?

混乱しすぎて涙も出ない。

代わりに頬に落ちた粉雪が、溶けて流れる。

「ママ…」

細い声に我に返った。

優紀君が自分を見上げていた。

自分の胸に届くか届かないかの身長、細い肩、きゃしゃな手足。

やっと1年生になる、こんなに幼い子どもが、残されてしまった。

青白い顔に不安でいっぱいの目。

直紀さんの忘れ形見…。

そうだ、私にはこの子がいる。

守らなくちゃ!私が優紀を守らなくちゃ!

美祈さんは頭や肩に粉雪を受けながら、息子を抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫よ。ママがいるから。」

自分に言い聞かせるように、何度も何度も繰り返した。

精いっぱい虚勢を張って、自分の不安を封じ込める。


それからの美祈さんは、もう無我夢中だった。

白い箱を抱いて自宅に帰ったその日から、父親役と母親役の両方をこなそうと頑張った。

美祈さんには、身を寄せる実家も頼る親戚もなかった。

レストランのオーナー夫妻は、よるべなき親子をとても心配して、なにかと世話を焼いてくれたが、いつまでも甘えるわけにはいかない。

優紀君が小学生になり、放課後は学童保育に通うようになると、派遣会社に登録した。

最初の派遣先は、ショッピングモールの化粧品売り場。

学童保育のお迎えにあわせ、5時までの時短業務。

積極的に仕事を覚え、就業時間内はずっと立ちっぱなしで一生懸命働いた。

タイムカードを押したら、自転車をすっ飛ばして優紀君を迎えに行き、スーパーに寄って帰宅。

息つく間もなく、夕ご飯の準備をしながら、洗濯機を回し、部屋を片づける。

夕飯、お風呂、ベッドでしばしのお話タイム。

そのあと、残った家事をするつもりが、ついつい一緒に寝落ちしてしまう。

なにもかもを一人でこなす忙しい毎日でも、美祈さんはいつも笑顔でいようと心がけていた。

どんなに疲れていても、どんなに先行きの不安がこみあげていても、優紀君の前ではいつも笑っているお母さんでいたかった。

直紀さん、私頑張るから。あなたの分まで、優紀を幸せにするから。


そうして1年が経とうとする頃、美祈さんの体に異変が現れた。

体が乾燥して、痒くなってきたのだ。

ボディクリームを塗ってみたが効果はなく、やがて皮膚がひび割れて、赤く腫れあがる。

特にひどかったのは手と首筋。

こんな手でお客様のお肌に触れることはできない。

まさか手袋をして、クリームやファンデーションを塗ってさしあげるわけにもいかないし。

化粧品売り場で働いているのに、美祈さん自身はメイクができなくなった。

皮膚科を受診して薬を処方してもらったが、症状は改善しない。

そしてある日、契約解除が告げられた。

シングルマザーの美祈さんになにかと便宜を図ってくれた店長ではあったが、接客ができないのだから、仕方がなかった。

次の派遣先は、学校給食センターの調理場だった。

子どもたちのために、8000人分の給食を一気に作る仕事。

わが子の口にも入ると思うと、嬉しかった。

接客業務ではないし、仕事中は常に手袋をしているので問題はないと思った。

だが食品を扱う現場で、皮膚トラブルのある手は歓迎されない。

たまたま見学に訪れた保護者から、気持ちが悪いとクレームが入り、クビになった。

ドラッグストアの品出し係をやった時は、ノーメイクで首筋まで赤く腫らした美祈さんに客が眉を顰め、データ入力の仕事に就いた時は、美祈さんの使ったキーボードを、みなが敬遠した。

どんな職場に行っても、手のせいで長くは居られない。

正社員への登用なんて、夢のまた夢だった。

私は働かなくちゃいけないのに。優紀を育てなければいけないのに。

焦りが募り、美祈さんから笑顔が消えた。

イライラすることが多くなり、つい優紀君にも声を荒げてしまう。

ビクビクして自分の顔色をうかがうようになった息子を見て、さらに刺々しい言葉を投げつける。

そんな自分が嫌でたまらない。

優紀と二人、強く生きると誓ったのに。

たった3年でくじけそうになっている自分が、情けなくてたまらない。

「きっとこれは私への罰なんです。

ちゃんとお母さんがやれていない、不甲斐ない私への罰。

こんな汚い手で、もう優紀には触れない…。」

絞り出すような美祈さんの叫びに、アタシの胸も悲しみでいっぱいになっちゃった。

病院ねこのヘンナちゃん⑧

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