【小説】病院ねこのヘンナちゃん㉖(episode2-6)
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細く開けた窓から、小鳥の声と一緒に優しい風が流れ込んでくる。
ハーブティをすすりながら、綾音さんはしばらく風を感じていた。
アタシもヒゲをピクピクさせる。
「なにか聞きたいんじゃないの?」
視線を戻して綾音さんが言う。
「え?」
「そんな顔してるから…」
「いや、まさか、あの…。」
しどろもどろのサハラの反応に、綾音さんはふふふと笑った。
「いいのよ。患者と看護師の立場は、気にしなくて。
今は同じ看護師同士ってことで。
先輩に聞きたいことがあるんでしょう?」
窓の隙間から、ポニーのぽぽちゃんが顔を出した。
綾音さん、サハラ、そしてアタシを順番に見て、ブルルル…と声をかける。
まるで聞いちゃいなよ…と言ってるみたい。
ぽぽちゃんの大きな黒い目は、いつも穏やかで優しいの。
「まあ、ここには馬までいるの?」
びっくりしているのか、喜んでいるのか、綾音さんはぽぽちゃんに微笑みかけた。
その横顔に向かって、サハラが問いかけた。
「怖くないんですか?」
もう、サハラったら。単刀直入にもほどがあるでしょ?!
アタシはハラハラしたけれど、綾音さんは怒るでもなく、平然としている。
「怖いよ。当然じゃない。」
「じゃあ、なんでいつもしあわせだ、しあわせだ…って言うんですか?」
だ・か・ら、もうちょっと言い方を考えてってば、サハラ!
猫でもそれくらいわきまえてるのに。
でも綾音さんは笑っている。
「嫌いじゃないわ、そのストレートさ」
え、いいの?
アタシはびっくりして、綾音さんをガン見しちゃった。
綾音さんはカップを置いて、サハラに向き直る。
「さっきね…、突然目の前が暗くなって、身体に力がはいらなくなった。
ああ、失神するんだと頭では冷静に判断していたけれど、すごく怖かったよ。
このまま目が覚めなかったら、どうしよう…って。
まだ医学上、そこまでの状態じゃないと知ってる。
だけど、怖かったんだよね。」
さっきは看護師トーク。でも今は本音トークだ。
アタシは思わず居住まいを正した。
総合病院付属の看護学校を卒業後、綾音さんは新人ナースとして働き始めた。
看護の仕事は好きだった。
高い理想と使命感に燃え、自分の持てる全てを仕事に費やした。
入職した総合病院は、大学病院と開業クリニックの中間に当たるポジション。
最先端の高度医療は大学病院に、風邪や吐き下しなどの軽傷は町のお医者さんに任せ、入院加療を必要とする、そこそこ重篤な患者さんを受け入れる。
難しい治療をして終わり…ではなく、医師と看護師とパラメディカルとソシアルワーカーがチームになって、退院後の生活まで視野にいれた医療を提供する。
そんな総合病院の仕事に、やり甲斐と手応えを感じていた。
毎日が学びであり、出会いであり、チャレンジであり…、充実していた。
元気になって退院していく患者さんもいれば、お看取りをすることもある。
それは病院の宿命だ。
産科ではたくさんの誕生に、消化器外科ではたくさんの最期に立ち会った。
人は生まれ、やがて死んでいく。
そんな当たり前のこと、だけど普通の日常では忘れている事実を、毎日、目の当たりにした。
ひとつの命の周りには、その命を大切に想うたくさんの人がいる。
人は一人で生きているわけではない。
生かされているのだ…と何度も思った。
ある日、胸がつかえるような、胃がもたれるような変な感覚があった。
疲れているのかな…、最初は気にもとめなかったが、症状はなくならず体重が落ち始めた。
まさか!
同様の症状を訴える患者さんを何人も見てきたというのに、まさか自分が?
検査をした時には、すでにステージ4だった。
脚が震えた。
だが医療者の自分がオロオロと泣いているわけにはいかない。
毅然とした態度で手術や化学療法に臨んだ。
髪が抜け、どうしようもない怠さや吐き気に悩まされる日々。
辛い治療の先に希望が見えていればまだいいが、生存率がかなり低いということは、職業柄よく知っている。
不安で、不安で、不安で。
私は死ぬの?
これまでたくさんの人を見送ってきた。
でも自分が送られる側になるとは、考えたこともなかったことに改めて気づく。
どこか他人事だった。
自分は医療者で、ガンは患者さんのもの。
まさか自分の身に降りかかってくるとは、思いもしなかったのだ。
今更ながら知る患者さんの気持ち。
寄り添っているつもりだったけれど…、本当は自己満足だったのかもしれない。
「もう少しですから、一緒に頑張りましょうね。」
「大丈夫。心配ありませんよ。」
「食べないと、元気になれませんよ。」
自分が患者さんにかけてきた言葉たちが、今度は自分に向けられる。
どこか白々しく感じて、今まで私はなにをしてきたのだろう…と虚しくなった。
痛み止めや吐き気止めの力を借りて、うつらうつらと過ごす夜。
このまま死にたくない…と思った。
ベッドの上から窓の外の青空をながめる。
もう一度、あの空の下に立ちたい。
自分の足で大地を踏みしめ、頬に風を受けて、鳥の声に耳を傾けたい。
仕事も治療も精一杯頑張った。
酷使してきた身体を、この苦痛から解放してあげたい。
自分の五感を研ぎ澄まして、今、生きていることを確かめたい。
綾音さんは、ガンの積極的治療をやめ、ペインコントロールに切り替えたいと主治医に申し出た。
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