心のどこかでは、憧れていたのかもしれない
学生時代、どうしても解せぬことがあった。
教師が意気揚々と、授業とあまり関係のない、自分の嗜好全開のプリントを刷ってきてしまったり、あるいはブツを持ってきてしまうアレである。今まで出会った教師のうち、3割程度はこの類の人種だったと記憶している。
古文の教師が突然、恋愛にまつわる古語をまとめたプリントを作成してしまったり、英語の教師は感銘を受けた英文のスピーチを刷ってきたり、歴史科目の教師は実際に訪れた遺跡やら石碑やらを見せたがるし…
地学の教師はすぐに岩を持ってくるし、数学の教師は証明問題を持ってきては、その美しさを語りたがる。
そして大抵、こう言うのだ。「みんなにも見てほしくてさー!」
どうしてそうなる。自分が好きなことは、生徒も好きになると信じているのか?
いや、残念ながら興味がないのである。一応見る。明らかにいつもの授業より、熱の入っている説明も聞く。それでも、「ふーん。」良くて、「へえ。」
中には、「せっかく、一生懸命作ってきたプリントを粗末にされて悲しい。」などと、怒りだす者もいた。そう言われても、授業から脱線した、テストに出ない内容のプリントなど、大半の生徒にとっては不要物である。少なくとも、私の周りではそうであった。
「大人のくせに、勝手につくって勝手に怒るな。」なぜ一方的に、あなたの嗜好を押しつけられねばならぬのか。
「万が一将来教師になったとしても、そういう先生にはならない。いや、なれないだろうなあ。」というのが、当時の率直な思いである。
工場見学には興味がわかず、博物館、美術館に行く人の気がしれない。史跡巡りも、何が楽しいのか。そんな私が、大人になってそんな行動をとるとは思えなかったし、ましてや生徒にそれを伝えようと努力するなんてありえない。
ところが…である。私は探究学舎に携わってしまった。ふから始まって、んで終わる彼に、「向いてると思う!」と、紹介されてしまったのである。何をもって、私が探究学舎向きだと思ったのか。彼もまた解せぬ。
探究学舎のオンラインメンターになって、生活の中で授業に関連するものを見つければ、写真を撮って子どもたちに紹介するようになった。はじめは仕事としての責任感から。でも、少しだけでも普段の生活を意識して見つめてみると、今まで見えなかったものが見えてくる。
何が見えるようになったかって?少し長くなってきたので、それはまた次回。
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