短編小説『月へ走る。』


 太陽はいつだってあらゆるものを照らし続けている。
 四月の上旬とはいえ、日中は気温が上がる。サーキットトレーニングを繰り返すと体中から汗が噴き出た。ベリーショートの私の髪は汗でかなり濡れていた。南風が私の前髪を撫でる。男の子と大差ないくらい短い髪は、よくからかわれるけれど、私は結構気に入っている。
「それじゃ、種目ごとの練習に入って」
 私は部員に向けて指示を出すと、一口水を飲んだ。
 十人いる女子部員たちは、水を飲みながらその場にうずくまっていたり、長い髪のポニーテールをいじりながら飛行機雲を見あげていたり、おしゃべりに夢中だったり、誰一人として動こうとしなかった。
 私はこんな時、自分の役割を再確認する。だらだらと弛緩した空気に耐えられず、私はついカチンときた。
「ちょっと! 時間は限られてるんだから早く動いて!」
 部員たちはこちらを一瞥すると、一様に「すみません」と返事をして、トラック種目、フィールド種目ごとに散っていった。
 私は短距離を自分の専門にしている。運動場の隅に設けられた陸上部専用の短距離レーンへと駆け足で向かう。砂ぼこりが時折舞っていた。
「まったく、なんで私がいちいち指示しないと動けないの?」
 私は誰にともなくぼやいた。
「部長は大変だよね。お疲れ、風子」
 後ろから声をかけられた。
 タッタッタッと小気味良いリズムで私の隣に並ぶ。
 幼馴染の初音は、背がすらりと高く、ボブカットを無理矢理後ろで縛っている。均整のとれた引きしまった肉体は「走る」ことに最適化されていた。彼女には、自ら輝きを放っているかのような華やかさがある。制汗剤の爽やかな香りを振りまきながら、私の肩に手を置いた。
 私は初音へと顔を向けて、彼女のすっきりとした鼻の輪郭を眺めながらもう一度ぼやく。
「記録会まで時間が無いってわかってるのかな。一年生の部活見学もあるっていうのに」
「まあね、最近みんな気が抜けちゃってるよね。溜まってたら何でも言いな?」
「うん。……私が注意しても全然聞いてくれなくてさ」
「ほんと、良くないよね。私からも言ってみる」
「ありがと」
「お礼なんていいよ。小学生の頃からお互いそうしてきたじゃない」
 困ったときはつい初音に頼ってしまう。
 にっこりと微笑む彼女には含むところが一切ない。私は彼女の笑顔に少したじろいだ。そんな自分を自覚した私は、胸が少しチクリとした。
 部全体の基礎トレーニングが済んだら、競技ごとに練習を開始する。初音も私と同じ短距離が専門だ。短距離はスタートダッシュと、テンポ走をメインにこなす。
 私は走ることが何よりも好きだ。走るという行為にはそれ以外の余計な物事が全て吹っ飛んでしまうくらいの、爽やかさがある。自分の足で地を蹴って、次第にスピードに乗っていく感覚は、自分がそのまま風に乗ってどこかへ飛んでいけるような気になれる。ちょうど、渡り鳥が助走をして大空へ飛び立つがごとく、広い世界が私をふんわりと受け止めてくれるような心地がした。
 ただ、最近は疲れのせいなのか足が痛むことが多くなった。走る時も右足の甲を庇うような形になってしまい、上手くスタートが切れない。
 中学から陸上を始めて、いつも全力で練習に取り組んだ。私が一年生の頃は厳しい先輩がたくさんいた。私たち女子陸上部は自主性に任された部分が大きく、普段の練習内容は部員自ら決める。私は先輩の作ってきた伝統を絶やしたくなかった。
 練習が終わると、部員を招集する。私の前へ横二列に整列させた。
「今日のあの態度は何?」
 私は十人の女子部員の前で、ぴしゃりと言った。
「もう、記録会まで時間がないんだよ? 練習態度なんて初歩的なことで注意させないで」
 私は部員全員の顔を順番に見た。初音以外は皆下を向き、無表情だ。目を合わせようという意識がまるで感じられなかった。
 なんで、こんなにも、やる気がないの。
 私は部長として、この部をより良くする責任がある。三年生の私は、引退まで時間があとわずかしか残されていなかった。私が確実に部活を続けていられるのは五月の記録会までだ。それ以降は、上位の大会への出場を勝ち取らなければ部活に残れない。
 私以外の部員にとってもこの時期はとても大事な時期だ。記録会のあとは県大会、ブロック大会、全国大会と重要な大会の日程が控えている。一番学びのあるシーズンなのだ。この時期にどれだけ練習に集中できたかが重要だったし、大会を目標に、チームを一つにまとめる必要があった。
 理由はそれだけではない。初音はこの部のエースで、一人だけずば抜けていた。全国大会の標準記録をあと少しで突破できそうなのだ。スポーツ推薦で強豪校へと進学することを目標にしている彼女のためにも、部活の雰囲気を少しでも良いものにしたかった。
 けれど、部員には上手く伝わっていないようだ。
 早く終わらないかなぁ、と、部員たちの雰囲気は告げていた。彼女たちはひたすらに無言だった。
 らちが明かない。
 私はため息を一つすると、
「……明日からは、しっかりしてください」
 と言うことしかできなかった。
 自分が情けなくなる。このままで本当に良いのか。私が目指した陸上部の姿はこんなものではないはずなのに。
 初音へと視線を向けると、彼女は困ったように眉をひそめて、少し口角を上げた。
 もう、今日は解散しよう。
「では、これで今日は解散とします。お疲れさまでした」
 私はその場に立ち尽くし、ばらばらと部室へと向かう部員を茫然と眺めていた。
「大丈夫だよ……。私は分かってるから。一人じゃないよ」
 初音は、ぽんぽんっと私の頭を撫でた。
 初音とはその場で別れ、私は着替えるために部室へと向かう。
 部室に入ろうとしたら中から笑い声が聞こえて、私は立ち止まった。二年生の部員の何人かが、部室の扉を閉め切って騒いでいた。私はそっと扉へと耳を近づけた。
「マジであいつなんなの?」
「部長だからってさぁ、自分の理想を私たちに押し付けるなっての」
「つーか、『今日の態度は何?』とか、そっちこそ態度を直せよ」
「余計やる気なくすわ」
「ねー。あいつ無視するのも相当体力要るんだけどぉ」
「まあ、あと数週間の辛抱でしょ。あいつが県大会に進めるはずないし」
「ほんとさぁ、なんで初音先輩じゃないの、部長」
「ふつう、あんなに光るものが何もないやつに任せないよねぇ」
 私は唇をかみしめた。じわじわと血の味が口に広がる。泣くものか。泣いたら負けだ。私は部室の扉から離れると、短距離レーンへと戻った。

 記録会が二週間後に迫ったタイミングで、練習メニューの負荷を上げた。
 私は毎日の部活に加えて、家に帰ってからも近所の川の堤防を自主的に走った。皆のやる気が出ないのは自分が行動で示せていないのが原因だと思ったからだ。きっと、やれば分かってくれるはず。私はそう信じた。
 走る時の堤防の周囲は暗く、橋の街灯が遠くに見えるのみ。分厚い雲が空を覆い、星も月さえも姿を見せなかった。

 記録会まであと一週間に迫った金曜日。私は部活を終えて家路についていた。
 練習中から妙に右足の甲が痛い。歩けなくはないが、ずっと熱を持ったように腫れて、疼痛がする。
「あんた、どうしたの、その歩き方」
 家に着くと母が真っ先にそう言った。私は痛くてたまらずびっこを引いていた。
 私は拒んだが、引きずられるようにして病院に連れて行かれて、レントゲン写真を撮った。
「ああ、中足骨が疲労骨折していますね」
 医師が無感情に告げる。骨折……私は嫌な汗をかき始めていた。
「なにか、運動をやっていますか?」
「……はい、陸上を」
「ちょっと、治るまでは部活はやめといてもらえるかな」
 医師はあっさりと言い放った。
 ちょ、ちょっとまって。
「あの、どれくらいの期間でしょうか」
「完治には二か月くらいはかかるでしょう」
「そんな、あの、大会があるんです……! どうしても休まなければいけませんか?」
 医師は首を横に振り、
「中途半端に練習を再開して衝撃を与えてしまうと、より悪化してしまうのです。気持ちは分かりますが、安静にしてください」

 ……目の前がまっくらになることって、本当にあるのだな。

 私がずっとやってきたことは一体なんだったのだろう。部活のため、後輩のため、初音のため……。
 ひどくむなしい。私は抜け殻になったみたいだった。
 そう思った私は、土曜日の部活を休んだ。
 力が抜けてしまって、何も考えたくなかった。
 二階の自室で布団にもぐりこみ、ずっとテレビを見ていた。いつもなら笑っているはずのお笑い芸人のツッコミに、無性に腹が立った。
午後三時を過ぎた頃、インターホンが鳴る。
 母が出ると、すぐに私を呼んだ。
「風子、初音ちゃんよー」
「分かった。今行く」
 休むことをはっきりと伝えていなかったから、心配をかけてしまったのかもしれない。私は右足を庇いながら、一階まで下りる。壁に手をつきながら玄関までやってくると、母とすれ違った。初音を見ると、私は思わず「あっ」と声を出してしまった。
「大丈夫? 風子」
「腫れは引いてないけど、なんとか歩けるよ」
「そう。思ったよりも元気そうでよかった」
 初音の声色はやさしいが、表情はとても鋭かった。
「上がってよ。せっかく来てくれたんだし」
「そうする」
 二階の私の部屋はひどく散らかっていた。脱ぎ散らかした服は床に放り出されており、教科書類が机の上に散乱していた。本で埋まっていたカーペットを発掘し、そこへ二人で座る。
「ねえ、風子。私が今何を思っているか分かる?」
 初音は私の目をまっすぐ見据えて、静かに言った。
「うん、なんとなく……」
 初音の顔は今までにないくらい怖かった。目の奥が笑っていない。きっと怒っている。
「そう。なら、遠慮なく」
 私はつばを飲み込んだ。
「この、馬鹿!」
 耳が射抜かれたかと思った。それくらいの衝撃があった。
「自分が怪我して大会に出られないんじゃ意味ないじゃない!」
 初音は声を震わせて言った。
「私は、風子と一緒に大会に出たかった……」
「……」
 初音は私の正面に居直ると、抱きしめてくれた。
「初音……」
「風子がすごい頑張って今の陸上部を引っ張ってきたこと、私知ってるから。絶対、風子は報われるって信じてた。後輩たちが好き勝手言ってたことも知ってる。何度か注意もした。陸上部で、本当に、真剣に、打ち込んでやってきたのは風子だから。だから、私、悔しかったんだよ」
 初音は私のスウェットの背中をぎゅっと握りしめた。
 うわああん、と、声を上げて泣く初音を私も両腕で抱きしめる。
「今なら、泣いても良いんだよね?」
「良いよ。だって、私もう泣いてるもん」
 それからは、二人して気が済むまで泣いていた。
 
 その日見た夢は、私にとって一番美しいものだった。私は川の堤防を走っていた。空は厚い雲に覆われて、明かりは橋の街灯だけだった。堤防を駆け抜けると橋へとたどり着いた。橋を渡り対岸へ行こうとするも、どこまで行っても渡り終えない。次第に橋は雲へと近づき、ぐんぐん空へと昇っていく。私は橋を進み続ける。厚い雲を通り抜けると、そこに見えたのは星々と大きな満月だった。月はじんわりとやさしい光を放っていた。橋はまだまだ続いており、月へとつながっているようだった。私は雲海を見下ろしながら、月へ向かって走りだした。

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