見出し画像

ショートショート『演技』

 深呼吸してみる。
 鼻腔をひんやりとした空気が通り抜ける。公園から覗くソメイヨシノは眩しいくらいなのに、朝はまだまだ肌寒い。柔らかい春の匂いと、車の排気ガス。
 吸い込んだ空気で腹を膨らませて、一瞬息を止める。それからゆっくりと口から吐き出す。吐き出すにつれて心のざわめきが治まっていく。緊張が少しだけだけれど和らいだ。
 わたしは小学校前の交差点でサキを待っていた。
 なんども練習してきたのだ。
 横断歩道の脇に立っている大きな電信柱に背中を預ける。背負っている赤いランドセルが傷つくのも気にならなかった。同級生たちはわたしのことを不思議そうに見ながら通り過ぎていく。クラスメイトの女の子はわたしと目が合うとすぐに目を逸らして、学校の門へと足早に吸い込まれていった。
 わたしは唇が渇くのを感じ、そっと舌で舐めた。
 
「わたしって、変なの?」
 リビングで本棚を見つめながら、隣のキッチンにいる母さんに言う。
 母さんはちょうど夕飯を作り始めたところだった。隣のキッチンから野菜を切る音がリズミカルに聞こえてくる。母さんは聞こえなかったようで、返事はなかった。
 苛立ちが抑えられずに、わたしは少々乱暴に座っていたソファから立ち上がり、どしどしと足音をさせながら、キッチンへと突撃した。
「ねえ、聞いてるの?」
 わたしは背を向けている母に向かって、ついキツイ言い方をしてしまう。
「……どうしたの。怖い顔して」
 振り返った母さんは目を丸くしていた。
「わたしって、変?」
 母さんは包丁を置き、じっとわたしの目を覗き込んできた。静かな目だった。
「とりあえず、座りなさい」
 食卓を指さしてから、エプロンで手を拭いた。
 わたしは言われたように、手前にあった椅子に座った。玉ねぎのツンとした臭いが鼻につく。母さんはわたしの差し向かいに座り、微笑んだ。
「さあて、何かあったのかな。言ってごらん」
「わたし、サキに裏切られた」
 母さんは困ったような顔をした。
「裏切られたって……どういうこと?」
 サキはわたしの友人だ。去年の二学期に転入してきた。とてもおとなしい子で、クラスメイトとはうまくなじめないようだったけれど、わたしとは気が合った。二人で委員会もしたし、遊びにも行った。そのたびに決まって微笑んで、「ありがとう」というのだった。
「聞いちゃったの。クラスの女の子と話しているのを」
「なんて言ってたの?」
「クラスの子が、わたしと仲良くしてるのはおかしいって」
「おかしい?」
「わたしのこと、変なんだって。いつもへらへらしてるって」
「サキちゃんがそう言ったの?」
「サキちゃんじゃないよ。でも、サキは笑ったの。あははって」
 昼休みに教室を出て用事を済ませた後、戻って教室の扉を開けようとしたら聞こえてきたのだ。わたしはそれから学校が終わるまで保健室にいた。
 母さんは唇を固く結び、ちょっと眉ねを寄せた。瞳に宿る光が鋭さを帯びる。
 思わず口が動いた。口角を持ち上げる。
「でもね、わたしは嫌いになったりしないよ。だってわたしの聞き間違いかもしれないし……」
「そう」
 母さんの黒い瞳はわたしの顔を映しているだろうか。
 私はそっと視線を食卓に落とす。
「でも、今は、もう会いたくない」
 俯く私の頭に軽く重みを感じる。
 前を向くと、母さんがわたしの頭に手を乗せていた。しっとりとした手だった。
「わかった。悲しかったね」
 わたしは涙がこぼれそうになるのを必死にこらえていた。いっそのこと玉ねぎのせいにしてしまえればいいのにと思った。少し、鼻をすする。
「お母さん、あんたのやさしいところ好きだなあ」
「え?」
 母さんはさっと立ち上がり、聞き取れないくらい小さな声で何かを言って、廊下へと出て行った。
 残された私は少し驚きながら、根っこが生えたように食卓に座っていた。
 暫くして、不意に大きな物音がキッチンに響いてきた。それは廊下を伝ってきたようで、入口の方からぐらぐらと揺れた。何かが崩れ落ちるような音だった。
 わたしは身をすくませて、心臓が激しく脈打つのを感じた。
 椅子から文字通り飛び降りて、廊下へと走った。
 母さんが倒れていた。
 薄暗い廊下にうずくまるようにして倒れている。時折苦しそうに身を震わせている。
 慌てて駆け寄る。が、どうすればいいのかわからない。とにかく母さんの背中をさすった。ほかに真っ先にやるべきことはあったのかもしれない。けれど、わたしには分からなかった。
「……お腹が痛い」
「痛い? 痛いの?」
 母さんの顔色はわからなかった。薄暗い廊下でははっきりとは見えなかったし、自分の胸に丸まるようにして顔をうずめていたからだ。
 こらえていた涙が、一筋こぼれた。
「ねえ、あんた、お父さんに電話できる?」
 わたしは涙を着ていたトレーナーの袖でぬぐう。
「ちょっと待ってて!」
 母さんはそのままの姿勢でうずくまっていた。声をかけても呻くだけで、返事ができないくらい苦しいようだった。
 わたしは父さんの電話番号をあちこち探したけれど、なかなか見つからずに家中を走り回った。結局、リビングの本棚の上に置いてあったメモ用紙に、父さんの携帯電話の番号が走り書きされていた。震える手でなんとか固定電話から電話をかけた。それから、父さんは驚くほどの素早さで家に帰ってきた。ものの五分もかからなかったように思う。
 父さんは母さんを抱きかかえ、二階の寝室に運んだ。その間、わたしはキッチンの食卓で待っているように言われた。なんども、わたしも手伝うと言ったが、穏やかな声で大丈夫だからおとなしく待っていなさいと繰り返すだけだった。
 キッチンの時計が十八時を告げている。十五分ほど待っただろうか。父さんがキッチンに入ってきた。
「母さんな、落ち着いたみたいだぞ」
「本当? もう大丈夫?」
「ああ……おいで」
 寝室ではベッドに母さんが横になっていた。穏やかに笑っている。わたしは駆け出した。
「良かった!」
「あんたのおかげ。ありがとね」
 母さんはわたしの頭をゆっくりと撫でてくれた。指から足の先まで血液が通っていく感じがする。母さんの手は少し冷たい。
「ねえ」
 母さんはわたしの名前を呼んだ。
「助けてもらった人は、みんなわかってるの。あんたが良い子だって。母さんのいうこと分かる?」
「うん」
 反射的に答えていた。わかったような気もしたし、まるで分っていないような気もした。けれど、母さんは満足そうにうなずいて、わたしの頬を少しひんやりとしたその両手で包んでくれたから、これで良いんだと思えた。
「ねえ、母さん」
「何?」
「キッチンから出ていく時、なんて言ったの?」
 母さんはいたずらっぽく笑って、
「秘密」
と言った。

 母さんはその翌日、つまり今日、倒れたことが嘘のように回復した。
 母さんは「学校行ったらいつも通りに挨拶するんだよ」と言った。朝食を作っている背中を見ていたら、なんだか気恥ずかしくていつもより早めに家を出たのだ。
「おはよう、サキ」
 繰り返し声に出す。あくまでそっとだ。本番にはいつも通りの声が出せるだろうか。口を両手で隠して、笑顔を作る練習をした。大丈夫。いつもと同じ。
 目の前を登校する同級生たちが次々に通り過ぎる。
 歩行者信号機が赤に変わる。
 子供たちが立ち止まり、自動車が一斉に走り出す。排気ガスの臭い。
 暫くして、車が行き交うその隙間から、見慣れたおさげの髪が見えた。
 私はもう一度唇をなめる。
 目の前を行き交う車が停車する。信号が赤に変わったのだ。
 差し向かいの歩行者信号機が青になるまで、あと三秒。
 サキと目が合う。
 わたしは大きく息を吸い込んだ。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?