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映画でも本でもなくゲームだからこそ描けるストーリーとはなにか―『ワンダと巨像』―

何を目的にゲームをプレイするかは人それぞれだと思います。
アクションゲームで自分のスキルをあげて敵を倒して達成感を得たいという人もいれば、シミュレーションゲームでコツコツと自分の思う通りのプレイを積み上げていくことに楽しさを見出すタイプの人もいるでしょう。



わたしがゲームをプレイする原動力になるのは多くの場合「ストーリーの先が知りたい」という気持ちです。
RPGにせよアドベンチャーゲームにせよ、とにかく面白いストーリーに出会うと、それを最後まで見届けたいと強く思います。
レベル上げもボス戦も、探索もそれ自体が楽しくなることもありますが、すべては物語の行く末を見届けるために必要なステップのひとつだととらえているところがあります。
もしストーリー以外のゲームプレイがあまり面白みがなかったとしても、話に惹きつけられるところがあればすべてが帳消しになるくらい、わたしにとってゲームのストーリーというのは重要なのです。


なぜゲームでなければいけないのか?

あるとき知人と、「ストーリーを楽しみたいというならばゲームではなく映画でも本でも良いのではないか」という話題になったことがありました。
議論ではなく、軽い雑談のようなものだったのでその場では結論を出したわけではないのですが、それ以来わたしはその問題について気がつけば考えていることが多くなりました。
ストーリーを楽しむにあたって、なぜゲームでなければいけないのか?
それは言い換えればわたしがゲームをプレイする理由とは何か?という話でもあると思います。
わたしは映画も本も好きですし、特に読書は幼いころ、ゲームを始めるより前から続けている趣味でもあります。
ですが、その2つの媒体とゲームとでは違う点があることに気がつきました。


それは、「没入感」です。


もちろん、映画にも読書にものめり込んで楽しむ、ということはあると思います。
ですが、ゲームは自分の操作、自分の判断が即座に画面に反映されていくリアルタイム性が他の媒体とは段違いだととらえています。
主体的に物語に関わっている実感を得られ、その結果、ゲームにより一層没入していく。
特にその没入感を活かしてゲームのストーリーを描き出している作品として、わたしは『ワンダと巨像』(2005年/PS2)を挙げたいと思います。


不朽の名作『ワンダと巨像』

かなり前の作品ですが、PS3でリマスター版も出ていますし、2018年にPS4でフルリメイク版が発売されたので、プレイしたことのある人も多いのではないかと思います。
「最後の一撃は、せつない。」
というキャッチコピーで知られる本作は、青年ワンダが魂を失った少女を蘇らせるため禁断の地に赴き、ドルミンという正体不明の存在と契約して16体の巨像を倒すという物語です。



作品中、主人公のワンダは冒頭の短いイベントシーンをのぞいてセリフがありません。
愛馬アグロを呼びよせたり、掛け声やダメージボイスなどはあるものの、自分の考えを話したりすることがないのです。
世の中には他にも主人公が話さないタイプのゲームはありますが、『ワンダと巨像』におけるそれは少し種類が違うように思います。
ワンダの代わりに、プレイヤーが彼の気持ちを語ることでストーリーを描いているのです。


プレイヤーがストーリーを描くとはどういうことか

どういう意味なのか、詳しくお話します。
『ワンダと巨像』は見上げるほど大きな「巨像」と死闘を繰り広げる、そのことだけに特化したボス戦だけをクリアしていくようなアクションゲームです。


唖然とするほど大きな巨像と対峙した時の「こんな相手と戦わなければならないのか」というすさまじい絶望感。
巨像によじ登ったものの腕力ゲージが減っていき、じりじりとした焦燥感に包まれるあの気持ち、そしてついに振り落とされまた初めからやり直しになった時のため息をつきたくなるようなやりきれなさ、徒労感はプレイした誰もが感じたことでしょう。
そして、それはプレイヤーだけでなくワンダも感じているはずなのです。
ですが彼はひと言も話すことはありません。
ワンダの胸にわきあがる悔しさや無念さ、本当にこの巨像を倒せるのかという不安などは、彼が口にする代わりにプレイヤーの心に芽生えるものなのだと思います。


プレイヤーはゲームプレイを通して知らず知らずのうちにワンダの心情をなぞり、彼と一体となって巨像と戦う。
「切ない」最後の一撃で巨像を倒し、そして不吉な黒い霧に体を蝕まれることで、明らかに自分が踏み込んではいけないところへ来てしまっていることに誰しもが気づくでしょう。
横たわる少女の亡骸を黙って見下ろすワンダの心に浮かぶ複雑な思いを、その眼差しからプレイヤーは推測するしかありません。
彼の胸に去来するのが愛情か、後悔か、巨像を倒せば本当に彼女が生き返るのかと疑念を抱いているのか、ワンダは語らないことによってプレイヤーの想像力を掻き立て、結果としてセリフを口にするより、一層雄弁に語っているのです。


『ワンダと巨像』がリメイクされるほど長い間人々に支持され、名作として語り継がれているのは、アクションゲームとしての面白さだけでなく、その物語が多くの人の心を惹きつけてやまないからだとわたしは考えています。
プレイヤーそれぞれがワンダに襲い掛かる苦難を身をもって体感し、その心情を推しはかる。
ほとんどセリフの無いこの作品におけるストーリーには正解などなく、いわばプレイヤーごとに思い浮かべた筋書きこそがそれぞれの『ワンダと巨像』なのだと思います。


まとめ

映画や本で主人公がほとんど話さず、代弁者もおらず、ストーリーの説明もないまま物語を描くというのは、相当難しい手法だと思います。
『ワンダと巨像』は相当尖ったゲームではありますが、ゲームだからこそできる表現でストーリーをプレイヤーの心の中に作り上げることに成功している作品だと言っていいでしょう。
『ワンダと巨像』のゲームデザイナーである上田文人さんの他作品『ICO』と『人喰いの大鷲トリコ』も同じようにほとんどセリフのない作品であり、そしてまたプレイヤーの心を揺さぶる素晴らしいストーリーを描いています。


ゲームでしかできないストーリー表現は、他にももっとあるはずだと思います。
他のゲームプレイヤーの方の意見もぜひうかがいたいテーマですので、noteでもX(Twitter)でも発表の場がある方にはぜひなにか書いていただけたら見に行かせていただきたいと思います。


ここまで読んでいただいてありがとうございました!