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子どもの頃何になりたかったですか。

一週間が始まったばかりだ。
帰り道は冷える。
本当は温かいロールキャベツを
食べたかったけれど、
キャベツを破かずに料理できる自信が
1ミリもない今夜は、
他のものを作ることにしようと思う。



子ども時代の
あなたの夢は何でしたか。


小学生の時の友人の1人は
「コックさんになりたい」
と言っては、
自分で編み出した摩訶不思議な料理を
遊び仲間に振る舞ってくれたものだった。
彼の実験台だった私たちは、
なんとかお腹も壊さずに生き延びて、
彼は今では立派なシェフとして働いている。

別の友人は
卒業文集の〈将来の夢〉の欄に
『ひこうきのうんてんしゅ』と書いた。
そして実際、そうなったのだった。

誰にでも
子どもの頃に憧れた職業があったことだろう。
自分の向き不向きはとりあえず考えず、
大人になった自分の姿を思い描きながら
やがてくる未来を覗き込んでいた。
目の前に広がる世界の大きさは途方もなく、
それがいつのまにか狭まってゆくなどとは
少しも思わずにいた。

私は子どもの頃に夢みた職業にはついていない。
叶えるための強い意志を貫かなかったのは、
誰のせいでもない。
自分が選んだことなのだ。
夢のためには何が必要で何をすればいいのかを
具体的にきちんと考えてこなかったのだから、
それがだんだん遠くへ霞んでいってしまったとしても、仕方がない。
朝起きて目が覚めたら理想の自分になっていた、
などということは起こらないのだ。
けれども。

時を経て、
子供の頃の夢の職業ではなくても、
日々の暮らしを支える今の仕事を
嫌いではない私がいる。
うまくいかないことや
落ち込むことももちろんあるけれど、
意外なことに私にとって悪くはない仕事だと
薄々気づいている。
何度も傷ついてやり直して
リスタートして、
たどり着いたところ。
こういうところでこういう働き方が
できないものだろうかと長く思っていたことが
実現できていた。
不思議なものだな。



ところで〈将来の夢〉のことを語る時、
何故それはいつも職業のことなのだろうか。
どういう生き方をしたいかという夢が、
教室のなかで
その場にそぐわない答えとして
失笑されるところを目にしたこともある。

中学3年生の時のクラスでひとりだけ
『北海道で牛を飼い、星を眺めたり
ギターを弾いたりしながら
自然体で暮らしたい』
と言った男子がいた。
笑われていた。
内心すごくいい!と思ったのに、
私はそう言わずに黙っていた。
彼の夢を笑うみんなの顔をじっと見るのが
精一杯だった。
私がしたことはそれだけだった。
貴重で大切な生き物を逃してしまったときの、
後悔に似た気持ちが残った。
その男子がその夢のことを覚えているのかどうか、私には知る術もない。

夢は職業のことと限らなくてもいいと考えると、
私の夢は少し叶っている。
文章を書いたり
空を見上げたり、
好きなことをしながら生きることができている。
ささやかなかたちだけれど、
夢はちゃんとそばにいる。




願えば叶う、という言葉には
少しのほろ苦さを感じる。
だが、心に想いを描かないことには
何かを叶えることはできない、
それも本当のことなのだと思う。
想い描いたことを知っている脳が、
無意識にも求めて、体は動き出す。
その様子を
自分のなかの小さな子どもは見つめている。

今、その子は笑っているだろうか。
それともあきらめ顔で
ため息をついているだろうか。

もう一度聞く。

子どもの頃、
あなたは何になりたかったですか。
あなたが何者でなくても、
今の自分が好きですか。
あなたの心に棲む小さな子どもは
嬉しそうにすごしていますか。




文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。