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【⚽️日本サッカーを愛そう】レフリー批判が危険な理由。

かく言う私も「おいおい勘弁してくれよ」とは思う。
「何で!」ぐらいの声は出る。しかし。


本日は、
レフリー批判ってのは実は危険なんだぜという話。というかそのロジックについて。

渋いテーマですがお付き合い頂ければ。



■実態

試合中に目撃する納得のいかないジャッジは、いつだって僕らの感情の表面あたりを強めに擦ってくる。

よーく考えればジャッジの通りかもしれない。と一瞬だけ理性が顔を出したりもするが、それは見なかったことにして湧き上がる負の感情を押し通す。

我こそは100%正しい聖人なのだと自分自身に言い聞かせ、目をギンギンにして「おいクソレフリー!!」と勢い任せに批判する。


その様は例えば、
調理師免許を取得しパリで修業を積んできたショコラティエ、すなわちその道のプロに対して「おい!どこがカカオ本来の味なんだよこのクソショコラティエ!!」と言っているのと同じなのだが、
GODIVAの店頭では見かけないこの風景が、なぜかスタジアムだとまかり通る。


もしかしたら言う方もそんなに強い思いは無いのかもしれない。

とにかく選手を批判するよりはレフリーの方が言いやすいし、「選手の人生がかかってるんだよ!」と言えば何となく正当化される気もする。

上手くいっていないゲームに対するフラストレーションが消化しきれず、その矛先を比較的弱者なレフリーに向ければとりあえず自分だけはスッキリ出来る。
そんな側面もあるかもしれない。



色んなものに板挟みなレフリー。



しかし、
そんな光景を目にするたびに僕は社会人になりたての頃の、2種類のおっちゃんを思い出すのである。



■人を選ぶな

設計をしていた新人の僕は、品管や製造のおっちゃん達によく怒られた。まぁそれはいい。

そんなおっちゃんにも色々な種類がいて、問題点をズバッと指摘してくれるプロに混ざって、相手によって態度を変えるクソみたいな輩が何人かいた。

怖い先輩にはヘコヘコするくせに若手を見ると高圧的に激高する。心の中で「絶対に偉くなってこいつだけは許さない」と、ある種 若き自分のモチベーターでもあったのだが、
とにもかくにもレフリーなら何を言ってもあり的な「相手を見て態度変えてない?」ってのは、かつての自分への処遇を思い出して少しだけセンチメンタルな気分にさせられる。


そりゃレフリーが100%正しいとは限らないし、中にはチームの運命を左右してしまうこともある。
ただ、
レフリーという職業に対して根底ではリスペクトを持ちつつ、「今のはさすがに違うんじゃない?」とロジカルに意見できているかどうか。

同じ批判行為でもこの差はとても大きいかなと思う。


物事を俯瞰して、相手によって態度を変えることなく、自分の意見を毅然と述べるおっちゃんはそれなりにカッコよかった。
対して、
相手によって態度を変え、ワードを変えて感情的に汚い言葉を発するおっちゃんはそれはそれはダサかった。

少なくとも自分は後者じゃないよな、と。そんなことを意識しながら、
「おいおい勘弁してくれよ」と思ったり、「何で!」ぐらいの声を出す。

全てのジャッジを受け入れることは難しいけど、このスタンスは忘れないでいたい。



そして、
レフリー批判にはもう少しスケールの大きな問題が潜んでいるのではないかと個人的には推察する。


本題はここからである。




■本当の悲観

突然だが今、日本では教師の数がどんどん不足しているらしい。


令和4年の文科省の調べによると小学校、中学校、高校いずれも定数割れしていて、しかも志願者も減少傾向だという。


その昔、教師と言えば今よりもずっと絶対的であった。

例えば、
ウチの子が先生に叱られたとの情報を得た母親は、「またお前なにかやらかしたのか!」とまず真っ先に我が子を直視した。
「そんなことねぇよ母ちゃん」と少年は反抗するも母親は取り敢えず先生に謝り、確かな情報を取りに行く。

昭和のドラマに出てきそうな風景だが、その昭和から脈々と続くドラえもんやサザエさんの先生と親との関係にその片鱗が垣間見えるたりする。

それ自体が良いかどうかは置いておいて、少なくとも教師側の質と、それを信頼できるだけの器量が親側にもあった。



しかし、
先生の質が落ちたのか、親の質が落ちたのか。この絶妙なバランスを保っていた関係性にひびが入り始める。
モンスターペアレンツの登場である。

巷で耳にするモンペによる被害報告は聞くに堪えない。教師という品行方正を向止められる立場が逆にネックとなり、一部の親たちにとっては反抗できない弱者に見えたのであろう。

「それでも教育者か!」と言えば教師たちが下手に出ざるを得ないことを利用して、一部の親たちは狂いに狂った。
その結果何が起きたか。

圧倒的な教師不足である。



■裏方の苦悩

教師にしろ看護師にしろ保育士にしろ。

人が人らしく生きるために、直接的なフォローをする職業ってのはいつだって裏方だ。
学校の主人公は生徒だし、看護師は患者ファーストで働く。保育士だってそうだ。

そして、我々の生活はこういった人たちの存在が無ければ成立しないという事実もある。


一般的に重労働と言われているこれらの裏方職業。
そんな渦中に身をささげる彼ら彼女らのやりがいは他でもない、感謝されることではなかろうか。

「ありがとう。」「助かりました。」「今の自分があるのはあなたのおかげです。」
給与明細に反映されないこれらの言葉を糧に、目の前にいる人のために働く。実はこれはもの凄いこと。

かく言う私は、
「世界のみんな。もっとオラを褒めてくれ!」と、元気玉よろしく自己肯定感を他に委ね、一方で「金だ!金だ!金を稼ぐぞ!」と現金玉をも膨らます欲張りな性分。
改めてこの職業意欲というか、やりがいの重さは尊敬して止まない。


リスペクト。


そしてこの、
裏方であり、居てもらわないと成立しないという点において、レフリーという職業もまた同じでではないかと強く思う。

そう考えると、
もし彼らの最大のモチベである「感謝」が世間から抹殺されてしまったのなら、誰もレフリーという職業を選ばなくなるのは火を見るより明らかだろう。


恐らくだけど、今後こうしてレフリー志願者は減っていく。

何故ならこんなにやりがいの無い裏方は無いからである。




■本当に怖い話

ちょっとダラダラと書きすぎたのでそろそろ結論を。

ここまで整理してきて、レフリーが居なくなったら確かに試合出来なくなっちゃうもんね。そりゃまずいよね。
と考察した人は残念ながら少しばかり思慮が浅い。(ごめんね)


本当にヤバいのはこれである。


人が集まらないとどうするか。
集まるように門戸を広くする。すなわち誰でも御座れの無法地帯と化し、候補者の適性は二の次になる。

伴って、そのレベルが下がってしまうのである。


今いる先生方のレベルが低いと言っているわけではなく、
実際問題として人が集まらない場所、組織ってのはどうしてもレベルが下がるのは自然の摂理。

逆のパターンもある。
神奈川にある法政二高といえばかつて偏差値60前半の中堅校であったが、2010年代に学校のある武蔵小杉に高層マンションがにょきにょきと乱立して受験生が殺到。
今では慶應義塾と並ぶ偏差値70オーバーの超エリート私学になってしまった。

つまり、
人気があればレベルは上がる。人気が無ければレベルは下がる。

この自然の摂理において、
果たしてレフリー批判はどちらに作用するか。


「日本のレフリーはレベルが低い!」と、なじるような言葉で批判すればするほど、それは積もりに積もって結果としてレフリーのレベルを下げている。

皮肉なことに。


これ。やばくないだろうか。マジで。

風が吹けば桶屋が儲かるよりももっと簡単なロジックで、レフリー批判は回りまわってそのレベル低下を助長してるんです!!




やや予言めいた今回のnote。
結果が見えるのは数年後か、それとも。


本日も、最後までお読みいただきありがとうございました。

批判は、良く考えてからするべきかもしれません。


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