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【エッセイ】辞めてから気がついた合唱の醍醐味

先日、合唱団の演奏を聴く機会があった。50~60代位の女性グループで、様々な人生経験を積んできた世代ならではの深みや落ち着きが演奏に表れていて素敵だった。
そして、聴いていて懐かしさを感じた。

なぜなら、私も高校時代に合唱経験があり、その時に歌った曲がプログラムに入っていたからだ。
そして、今思えば「痛い」記憶がよみがえってきた。

当時入っていた合唱部は、部員が女性のみ15~20名で、女性三部合唱という形態だった。
パートは高音のソプラノ、低音のアルト、そして、その間のメゾソプラノの3つ。
どのパートに属するかは、顧問が決める。
部員それぞれの声質や声域を聴いて決めると聞いたことがある。

私は、入部から引退するまでずっとメゾソプラノ(以下メゾ)だった。
メゾを歌っている人には本当に申し訳ないのだが、当時の私は自分のパートが嫌で仕方なかった。

理由は二つある。ソプラノとアルトに挟まれて音を取るのが難しいのが一つ。もう一つは自分の声の個性の無さを痛感させられたからだ。
主旋律が多く華やかなソプラノ、低音域をじっくりと響かせるアルト、いずれにせよ高いか低いか声の特徴が出る。

しかし、メゾはどちらにも当てはまらない声を持つ人たちの集まりだった。
パート内の雰囲気は、和やかだったし、居心地は良い。
だけど、音を取るのに難しい思いをするわりには目立たないので損だなぁ、と心の奥で思っていた。もちろんその気持ちは誰にも言わなかった。

パート決めは、3年生の引退や新入生の入部、コンクール前などのタイミングで度々行われる。
そこでメゾからアルトやソプラノに移る人もいた。私は内心、華があるソプラノに憧れていた。
理由はイメージと音の取りやすさ。仲のいい友達がソプラノのいい声をしていて、とても羨ましかったのもある。
私は毎回、パート変更でソプラノの仲間入りを期待したが、いつまで経ってもメゾのまま。なりたくないのにパート内のヌシのようになっていた気がする。


そして、ある日のパート分けで顧問が発した言葉に腹が立った。それは「メゾは声が届きにくいから、とにかく人数が必要なんだ」というものだ。
専門家から見ると、正論なのかもしれないし、合唱を維持するには必要なことなのかもしれない。
しかし、自分のパートが他のパートに入れなかった人を寄せ集めたようで、みじめに思えたのだ。

そこで意を決して、顧問に「ソプラノをやりたい」と伝えに言った。高い声も出ないわけではない。
今思えば恥ずかしいのだが、努力で何とかなると思っていたのだ。
それに、黙っているよりは希望を伝えた方が良いのではないか、と一人熱くなっていた。

もちろん結果はNG。
理由は「あなたの持っている声質がメゾだから」。あきらめたが、受け入れられずにいた。

結局、ふてくされながらも引退まで続けた。
そして、進学先の大学で合唱のサークルに入ろうとした。
諦めの悪い私は、メンバーが変わればソプラノを歌えるのではと淡い期待を抱いていた。
先輩に合唱経験とパートを聞かれ、正直に答えた。
すると「嬉しい~、メゾ足らないんだよねー」と言われ、声を出す前からパートが決められてしまった。結局入部を見送り、音楽とは関係のないサークルに入った。

合唱を離れると客観的に聴けるようになった。
そこから気がついたのは、心が震えるような素敵だと感じる演奏は、全体でハーモニーを創り出し響かせていることだった。一人一人違う声のはずなのに溶け合っていて心地よい。いつまでも聴いていたくなる。
そしてどのパートがどの旋律を歌っているのか気にならなかったのには驚いた。

それから高校時代の自分を振り返ると、とても恥ずかしくなった。

それぞれの持っている声質を合わせて一つの曲を創り出すのが、合唱の醍醐味。
なのに自分の希望ばかりが先に立ち、集団での役割を考えられていなかった。
そして、自分の持っているものを磨こうともせずに、諦めてふてくされていたことに後悔が残る。

離れてみてわかること、そして年月が経ってようやく腑に落ちることってある。

今は毎日バタバタで合唱を始めるのは難しいが、やってみたら本当の意味で楽しめるような気がしている。

そして、自分に無いものを嘆くよりも、与えられた役割をまっとうしていきたいとつくづく思うのだった。
でも、つい人のことが羨ましくなっちゃうこともあるんだけどね。それは仕方ない!






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