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「学校を休みたい」が言えなかった私。子どもたちに伝えたいこと

今日小1次男が学校をお休みしていて、今noteを書く私の隣でゆっくり過ごしている。

昨日が夏休み明けの学校初日だったのだけど、久々の学校で疲れたのか、ちょっと熱中症な感じもあるのか、昨夜からちょっと頭が痛いと言うので、その日は早めに寝て。今朝もまだ本調子ではないみたいなので、念のためお休みすることにした。

熱はないし、ひっそり頭が痛いらしいけれど、普通にレゴで遊んだり漫画読んだ李、ペラペラおしゃべりしているので、ちょっと休めば大丈夫そうかな、という感じ。

そう、頭が痛いというから学校を休ませたけど、結構元気そう。
もちろんひっそり頭が痛いのは本当だと思うけれど。

そして、その様子を見ながら私が思ったこと、感じたことというのは…

「いいなぁ…」

そう、私は、次男が羨ましい、と感じるのだ。

実はこの感覚、今までも感じたことがあって。

これまで、長男にしろ、次男にしろ、子どもたちがはっきりと体調崩しているわけではないんだけど(熱、とか、咳、とか、怪我、とか、明確な症状がないのだけど)、なんとなく本調子じゃなさそうで、なんとなく学校に行きたくなさそうな日。

体の症状としては、お腹を壊しているわけではないのだけど、「ちょっとお腹が痛いかも…」と呟いて、なんとなくもじもじしている日(長男は疲れが出てくると、このなんとなくお腹が痛いを訴えてくることがある)。

なんかね、明らかな症状があれば、それはもちろん学校休んだほうがいいよね、ってなるから、それはわかりやすいし、親としても決断しやすい。でも、目に見える症状はないけど、なんとなく子どもたちが本調子じゃなさそうだな、とか、あ、これは休みたがってるんだろうな…というときは、やっぱりちょっと判断に迷う。

この「判断に迷う」というのは、単純に子どもたちの様子(どこまで切実か)を見極めるうえで迷うというのももちろんあるのだけど、もう1つ出てくるのは私自身の心の中の葛藤。

「明らかな症状がないのに、学校を休ませる」ということに対して、「本人たちが行きたがってないなら、別に無理に学校行かせなくてもいいじゃん」という自分と、「なんとなく行きたくないから、なんて曖昧な理由で学校に行かないなんて、ズルい!」という自分の中での葛藤が生まれる。

そう、私は、彼らが羨ましい。

症状はないけど、「なんとなく、休みたいなぁ…」で休ませてもらえる彼らを「いいなぁ…ズルい!」って思う私がいる。息子たちが学校を休むこと自体が悪いと思っているわけではないし、学校を休むことを責めてるわけでもないし、学校は休みたいときに休めばいいと、今の私は本当に思っている。実際に今日も、今までも、そうやって子どもたちが休みたがったときは、明確な症状とかなくても休ませたことが何回かある。

それでも、一方で、いつもどうしても私の中から滲み出てくる「ズルい」という感情。

この感情の出どころ、原因はわかっている。

私自身が、自分が学生の頃に、そうやって、明確な症状とか理由はないけど、「なんとなく休む」をしたかったのに、できなかったから。だから、今目の前で「なんとなく休む」をさせてもらえる彼らが羨ましい。私も、こんなふうに、自分の微細な体調の違和感や気分で、休めたらよかったなぁ…って今でも思う。

小学生、中学生、高校生と、学校生活をおくっていた頃、やっぱり、「なんとなく学校に行きたくない…」とか、体に明確な症状があるわけじゃないけど、「気持ちがしんどいから家にいたい…」と思うようなときが、私にもあった。

今思えば、人間なんだから、もちろん心身の浮き沈みはあるし、 理由もなく休みたいときもあるし、そんなときは堂々と休んでいいって思うけど、学生時代の私には
そんな発想はなかった。

ちなみに、私の親が特別厳しくて絶対学校に行かせようとした、とか、私が休みたいと訴えても休ませてくれなかった、とかではない。どちらかというと、私が休みたいと訴えれば、私の気持ちを尊重して、快く休ませてくれるような親だったと思う。

でも、私が「休みたい」と言えなかったのだ。

なんだろう、「正当な理由(それこそ体調悪いとか)がないと学校を休んじゃいけない」と単純に思っていた。誰かに直接そう言われたわけじゃないし、「ちゃんと学校に行っていい子でいなきゃ」と頑張っていたという自覚もあまりないのだけど、ただ、「日々学校に行くこと」が自分の中で当たり前だった。

20年前なんて、みんなそうだったよね…?

今では、学校にスクールカウンセラーさんがいたり、「無理して学校行かなくていいんだよ」みたいな学生たちのメンタル面のケアにも多少目が向けられるようになったかもしれないけど、私が学生の頃は、そんな風潮まだまだなかった。

ちなみに一つ私の具体的なエピソードだが、私は学生時代から本当に本当に運動音痴で、体育が本当に本当に苦手で、足も遅いし、ボール投げるのも下手だし、本当に体育の時間が苦痛でたまらなかった。通常の体育の授業だって私にとっては地獄の時間だったのに、それにさらに輪をかけて私に苦痛をもたらしたの…体育祭!

個人競技ならまだ自分が下手くそで恥かくだけで(恥かくのもやだけど…!)、人に迷惑はかけないけど、クラス対抗リレーとか、自分が足遅いことで人に迷惑かけたり、それで責められたりすることが、とにかく辛くて、本当に毎年毎年体育祭が嫌でたまらなかった。毎年毎年体育祭を休みたくてたまらなかった。

でも、「休みたい」とは言えなかった。

だから、体育祭当日、どうか体調悪くなりますように、雨が降りますようにと、毎年祈っていた。当時の私にとっては仮病はどこか後ろめたくて(真面目だなぁ)、自然と休める状況になることを毎年祈っていた。

…というように、本当は学校を休みたいけど休めなかった、という記憶が今でも色濃く自分の中に潜んでいるのだ。

そんな嫌な思い出があるからこそ、自分の子どもたちには「休みたいときは休んでいい」という選択肢をちゃんと提示してあげたいと思う。実際今もそうしている。

でも一方で、当時の「本当は休みたい…!」としんどかった自分の感情は未だに消化されないまま、私の奥深くに眠っていて、息子たちがいざ学校を休むシチュエーションになると、当時の自分のことが思い起こされて、あの過去の感情が刺激されて、やっぱり「私は休めなかったのに、いいなぁ…」という嫉妬のような複雑な感情が、毎回私を揺さぶる。

そういう感情の揺さぶりや葛藤が起きるのは仕方のないことだし、別にそう感じてしまうのが悪いことだとも思わない。感情が出てきたときは、ただそれを感じてあげればいい。逆に、ただただ感じてあげるしかないから。

でもむしろ、そうやって本来の感情を感じてあげると、毎回心はチクンと痛むけれど、きっとそのたびに、過去の私は癒されてもいる。

だってね、こういうことがあるたびに、私、涙が出そうになるのです(むしろこれ書きながらちょっと涙滲んでる…)。

あぁ、当時の私、しんどかったなぁ、と。よく頑張ったなぁ、と。涙が勝手に滲んでくる。

お疲れ様、当時の私。
頑張ったね、当時の私。

子どもたちに学校を休ませてあげるたびに、その羨ましさと自分への労いで、軽く瞼を濡らす。

あぁ、でもそれって結局、目の前の子どもたちが、私を癒してくれているということかもしれない。「なんでもないときでも、休んでいいよ」って、過去の私に、今の私に、教えてくれているのかもしれない。それってなんだか、すごいことだなぁ。

そしてさらには、自分が本調子ではないときに、学校を休んでいいと言われた私の子どもたちは、将来自分の子どもたちにも同じことを言いやすくなるかもしれない。それって、なんだか温かい。それって、なんかいい。

だから私は、これからも、少し羨ましいと思いながら、そしてその度に過去の私が癒されるのを感じながら、子どもたちが学校を休みたいときは休ませてあげたいと思う。

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