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【休職の振り返り④】状態悪化

休職し始めて約2週間。
振り返り③でも綴った通り、自ら決めた1日のルーティンに従って生活をしていた。

と言っても、基本的な生活は会社や仕事との接点がないだけで、休職するより以前のそれとほぼ変わらない。
そんな中で変わったことと言えば、元々業務時間だった時間を読書と業務に関する勉強に使っていたこと。
そしてもうひとつが、「なんであの人(A氏)がダメになったのかな…」と休職に至った原因となったA氏のことを考えていたことだった。

打ち合わせ中、部署の仲間の前で私がした仕事を「無意味」だと評価されたことが心底ショックだった。
私の仕事は無意味。
それは私の世界では私の存在が無意味で、それだったら私はこの世界にいらないのだということと同義だった。
でも、冷静に考えれば、A氏はそんなことまで言っていない。

私の存在が無意味、私はこの世界にいらない。
私のした仕事を「無意味」と言われただけで、そういう思考に結びついてしまう。
私の何かを否定されたら、私のすべてが否定されたように感じてしまう。
もちろん人前での叱責はパワハラに該当しかねないものではあるけれど、一方で、私のこういう考え方も今回の件に大いに関係ある気がした。
段々とそんな風に考えられるようになっていた。

他人は変えられない、だけど私自身は変わることができる。
産業医や心療内科の先生にも何度か言われた言葉だ。
そして休職を通じて、「私の何かを否定されたら、私のすべてが否定されたように感じてしまう」という、私自身の課題を見つけることができた。
ならば次に私が考えること・すべきことは、その課題に向き合って、可能なら変わっていくこと。
そうでなければ、復職しても別の事象で同じ結果を招きかねない。
でも、そのために私は何をしたら良いのだろう。
いや、まずは心療内科の先生に相談してみようか。
2週間経った頃、私はそんなことを考えていた。

そんなとき、スマホにひとつの通知が届いていた。
よく見るとLINEの新規メッセージ受信、相手は母だった。
「お盆休みは帰ってくるの」
スマホを持ってもう何年も経つのに、未だデジタル機器に疎い母が私への質問で送ったと思われるメッセージ。
それを見た瞬間、私の心の中がどす黒くて重たい何かに押し潰されるような感覚で支配されていった。


私の母は都市部のそこそこ裕福な家で生まれた。
整った顔立ちかつスラっと長身の、いわゆる美人タイプの母は、バブル時代に年頃を迎え、恋愛も仕事もお金もそれなりに華やかな時代を桜花していたらしい。
そんなときに父と出会い、結婚した。
母が生まれ育った街で父と暮らし、数年後には私と下のきょうだいたちが産まれた。
それからさらに数年後、私たち一家は父の転勤でとある県に引っ越すことになる。
私の記憶は大体そこから始まっているのだが、成長した私がその県を自力で出る、つまりは実家を出るまでの間は「地獄」だったと記憶している。

父はもちろん母も、引っ越した先の県には縁もゆかりもなかった。
父方、母方の親戚はおらず、父にはかろうじて会社関連の知り合いはいたものの、母にいたっては知り合いさえいない。
そんな土地で、父は夜勤が多い仕事をして家にはほとんどおらず、母はひとりで幼い子どもたちを育てることになった。

幼いころに母から何度も何度も聞かされた、母の都会時代の話。
話の中の母はとても明るく、快活で、華やかで、私からすればとても派手な暮らしを送っていた。
それが母の自慢であり、誇りだったのだと思う。
だけど引っ越しを機に、母の暮らしは一変した。

何もない田舎町。
母の家族も親族も知り合いもいない。
ともすると、父さえも家にいない。
母が頼りにする、否、依存するたったひとりの父でさえ。

母は確かに明るく、快活で、華やかな人だ。
だけどそれと同じくらい真面目で完璧主義で、そしてこだわりが強く、これだと思うと固執して、それ以外が見えなくなってしまう人だった。

母は、父もろくにそばにいない見知らぬ土地で多くの時間を家事と子育てに、ひとり奮闘していたようだった。
多分、家事をして子どもを育てるのは母の役割だと考え、父に頼れなかったのだと思う。
確かに、昔母はよく「男の人を立てなさい」と私に何度も言っていた。

外で働く父にも頼れず、まだどうにもままならない子どもたちを育てながら、家事も日々完璧にこなしていた母。
その姿こそ、母にとっては「理想の母」であるがために、妥協することができなかったのだろう。
でも母は――完璧であろうとしたせいなのか――徐々に変わっていった。

人前では明るく、快活で、華やかなところを見せつつ、家では何かあるとヒステリックな振る舞いが増えた。
そして長子である私がいろいろと行動ができるようになると、母は家計を支えるためにパートにも出るようになったのだが、それが一層母のヒステリックさを増長させる要因になっていった。

母にとっての理想の子ども、理想の長女は、母を手伝って然るべきで、だから家事も当然すべき。
また、働いている母を助けるのは子どもの役目、長女の役目。
だから母が帰るまでにできることがあれば私がすべて終わらせておく。
また帰ってからも、母の隣に立って、あれこれと手伝って然るべき。

確かにわかる。
母だから、というのは置いておいても、困っている人を助ける。
友人や会社の仲間が困っていたら、自分にできることを考えて、率先して動く。
社会の一員として、私もそうでありたいと思っているし、心がけているつもりだ。
でもそのときどきで何ができるか、自分の年齢や経験値によってはできないこともある。

母は幼い私に一通りの家事を叩きこんだ。
そして失敗やミスを許してくれなかった。
私の当時の年齢に対して多くのことを求め、そして強要しすぎていた。
でも母は、それを子ども、ひいては長女である私にそれを強いることに何の疑いも持っていなかった。
それが母にとっての「あるべき長女(子ども)」の姿だったから。

なんで先にあんたが帰ってきているのに、あれもこれもしてないの?
私はパートの勤め先で、こんな嫌な奴がいて、そんな奴と仕事をしているのに。
長女なんだから、ちゃんとやれ。

今振り返ってみても、自分の感情がコントロールできていなかったのか本当に躾だと思っていたのか、はたまたその他の理由か、私にはわからないが、とにかく幼い子どもに対する厳しい叱責が日々の至るところで勃発していた。
私が少しでも何かできていないと母は私を非難し、否定し、会社であった関係ないことも含めて私にひどく当たった。
それから数時間~数日間は無視をされ、私の話しかけに応じたと思ったら泣き始めた。
「何でそんな風に育ったのか」と。

そんなことが幼少期から何度も繰り返されていれば、私も人間なので学習する。
叱られないためには、無視されないためには、泣かれないためには。
母の言いつけを守り、あらゆることを考え、母の先回りをし、母とともに家事を手伝う。
それから母の仕事の愚痴を聞かされてる父と同じ場にいて、遠からず私も聞くようにして、母の調子を伺うことが日課になっていった。

朝起きて「おはよう」と伝えるときに、母の声色と表情を伺う。
パートから帰ってきた母親の「ただいま」を聞いて出迎えたときに、母の声色と表情を伺う。
少しでも何か異変を感じたら、私にできることを最大限やってから「ごめんなさい」と謝った。
当時の私は、母が機嫌が悪いのは自分が理想の子どもではないから、悪い子どもだからだと信じて疑っていなかった。

大人が生き抜く「社会」なんて知らなかったから。
母が数時間でも過ごす会社や仕事なんてわからなかったから、母が怒ったり不機嫌になったりする原因がそこにあるなんて考えもしなかったし、わかるはずもなかった。
だから、私はひたすらに母のことを考え、母が機嫌悪くならないようと必死に考えて、日々を過ごしていた。

母に嫌われることが怖かった。
母に嫌われたら、この世界で生きていけないと思っていた。
だから母の理想の子どもでいようとした。
でも、拙い頭で考えて行動しても、私は完璧にできなくて、そんな私を母は叱責し、否定し続けた。

特に誕生日や母の日は本当に地獄だった。
母の誕生日プレゼントにと選んだ服や家事便利グッズを渡しては、「私がこのブランド以外の服を着ないこと知ってるよね?」と一度も着てくれなかったり、「結局料理するのは私なんだけど?」と無碍にされたり。
私の過去の容姿を「あれはあんたの暗黒期だったわね」と言ってきたり。
1番強烈な記憶として残っているのは「あんたは私と違うからだめなのよ」と叱られたときかもしれない。

私は段々とこの家にいることが辛くなっていった。
他人の家族に混ざったこともなければ、比較したこともなかったけれど、母がまともではないと何となく思っていたし、まともだったとしても私にとっての「理想の母」ではなかった。

この人は子どもに対しても絶対王政、恐怖政治を引く人で、この人が「理想」や「良し」としたもの以外は受けつけないし、それらを子どもにも押しつけようとする。
すなわち、私が良いと思ったものでも、良かれと思ったものでも、この人の「理想」ではなければ私の「良し」は無意味なもの。
だから母のことを考えて、ずっと母の理想でいようと思ったけれど。
母と私は違う人間だと段々実感するようになった私は、母の振る舞いが理不尽だと思うようになった。

母自身が何もない場所に来て、必死で家を守り、子どもたちを守ろうとしてくれていたのはわかっている。
だけど、それでも。
何をしていいわけじゃないんだよ。
私もひとりの人間なんだよ。
子どもは母の道具でも人形のおもちゃでもないんだよ。

私の想いをどこかのタイミングで、しっかり伝えられたら良かったのかもしれない。
でも、母を否定する言葉を紡ぐ勇気は私にはなかった。
それに、否定しようにも、私は一体何者で、どんな立場で母に想いを伝えれば良いのか、正直よくわからなかった。
母の理想の子どもでいようとした時間があまりにも長すぎた。
でも、ひとつだけわかることがあった。
それは、この地獄に身を投じ続けるのも、もう限界だったということ。

大学を出て、地元で会社員になった私は、引越し費用を稼いだのち、実家を出た。
早々に帰れない距離であり、憧れでもあった関東に出て、友達とルームシェアを始めた。
母と物理的な距離が生まれ、友達との楽しい生活も相まって、やっと私は誰の目も気にせず生きられるようになった。
誰のためでもなく、私のために生きていけるようになった。

私が家を出た数年後、母はスマホを持ち、とりあえずは連絡先を登録しておいたが、私から連絡を取ることはほとんどなかった。
母と話すことも話したいこともあまりなかった。
実家に帰ることもあまりなかったし、コロナ禍になってからはコロナを理由に何年も帰らなかった。

ときどき父と母が関東に来ることがあって、「あれしたい、これしたい」と言いたい放題言う母に何度も陰口を叩いていたけど、結局放っておくことができなかった。
私が拒否すれば、母がそのあとどんな風に振る舞うかわかっていた。
それが面倒でもあった。
だから良い子のふりをした。
私は、幼いころの私のままだった。

そんな私だったが、徐々に新しい生活にも慣れ、仕事も色んなことを任せてもらえるようになったり役職についたりして年収も上がり、趣味のことや自分磨きで見えている世界が広がっていった。
都会には何でもある。いろんな人がいる。
新しいことを知るのが新鮮で、刺激的で、本当に楽しい日々だった。

その後、ルームシェアは各々の進むべき道のためにポジティブな解散をして、私はひとり暮らしになった。
人生初めてのひとり暮らしもとても快適だった。
何も寂しくなかった。
親身になってくれる友達がいる、熱中できる仕事がある、夢中になれる趣味がある。
自分の意思で決めることができる生活。
それはとても楽しくて、平和で、これ以上のない幸せだった。

それでも。
私が負った傷が完治なんかするはずもなくて、むしろ治らないままたまに抉られることがあった。
それは母によって。
そして母に似たような人、そう、例えばA氏のような人によって。

今回の休職の原因は確かにA氏の我慢ならない叱責のせいではあるけども、根幹は自分よりも上の立場の人から私の行いを強く否定されることで、私は誰か・何かの理想の通りに行動できていない、そしてそんな私は役立たずで意味のない存在なんだと思ってしまうこと。強い否定をされることで、私が属する環境から追い出されたり、周りの人から嫌われるのではないかと思ってしまうこと。
すべては幼少期から大人になるまでに味わってきた、あの地獄のような体験がもとになっていたのではないかと思い至った。

もちろん私は専門家ではないから、決めつけるのはよくないのかもしれない。
だけど、考えれば考えるほど、母親とA氏は似ていた。
ああいう人がダメなんだ、苦手なんだと、ふたりを比較すればするほど、そうとしか思えなくなっていた。

母から来た何気ないLINEでそのことを瞬時に悟った私だったが、同時に、それでまたメンタルがやられてしまった。
それまで身体はしっかりと動いていたのに、数日間どうにもならなくなってしまった。

こういうときほど、私は誰にも助けを求められない。
まるで母のようだった。