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山に行ったら、いい子になった

私は東京生まれ、東京育ちだ。
実家はそこそこの都会。
土日に商店街に行くと、肌が触れ合わないと歩けないくらいに人で溢れる。

街を歩けば見渡す限り、お店やら歩道やら歩道橋やら、すべてに手入れが行き届いていた。

もちろん公園もあったが、人はたくさんいたし、芝は刈り込まれ、適当な感覚で歩道が敷かれ、木々は計画的に行儀よく植えられていた。

喉が渇けば水飲み場があり、トイレに行きたくなったらトイレに行けた。

私はそれを「自然」と思い込んでいた。

しかし、スイスに移住してから本物の自然というものに触れることになり、それは自然ではなかったことをはじめて知った。

道路はもちろんなく、ただ木々や草花が仕方なく譲ってくれた細い「隙間」を歩く。
木々は人間の意志とは関係なく伸びていたので、あるときは跨いだり、あるときはくぐったりしなくてはならない。

自然は私たちが手入れしたり管理する対象ではない。
私たちが自然に「おじゃま」している感覚。

私は山登りをしていると、だんだんと落ち着かない感覚になった。
自分が大きな自然の中に吸い込まれ、自然の一部となり、消えてしまいそうな感覚になったのだ。

自然は人間が管理できるようなものではない。
都会で見ていた自然は、自然の偽りの姿だった。

おとなしく見えた都会の木々は、本性を隠しながら虎視眈々と、形勢逆転のときを待っていたのだ。

人間の手に負えない自然を前にして、自分のちっぽけさ、人間の無力さにはじめて気が付いた。
腑に落ちた、という方が近いかもしれない。遅ればせながら。

都会で生まれ育つと、人間の「偉大さ」ばかり無意識にメッセージとして受け取っているのだと思う。

都会において自然は、人間によって管理され「征服」される対象であるし、
街を歩けば建物やお店、電光掲示板など人間の「作品」にあふれているし、美術館や演奏会などで芸術に触れると、人間の活動の「崇高さ」を感じる。

夜になったって、都会の明かりで空はいつまでもうすら明るく、宇宙や木々が作り出す本当の意味の「暗闇」を知らない。

人間は地球上でひとつの動物に過ぎない、と頭ではわかっていても、都会で生活することにより、肌や細胞レベルで「人間の偉大さ」に浸って生きてきたのだ。

そんな中スイスの自然に触れることで、自分は人生というゲームの中で、基本設定が「人間=すごい、自然=癒し」のような、傲慢な設定になっていたことに気が付いた。

「自然は恐ろしくて、人間の力では到底及ばない」と肌感覚で本当に納得するには、自然に身を置く必要があるのではないか、と思う。

そんなことしなくても、きちんと謙虚になれる人もいるのかもしれないけれど、自然に身を置くことは、最も簡単で最も効果的な方法のように思える。一種の荒治療だ。

特に子供のうちは世界が狭いため、傲慢になりがちな気がする。
都会で育った私のような子供はなおさらだ。

夫はその点で、子供の頃から毎夏に家族でキャンプに行き、サバイバルのような体験をしてきた。

川から水を汲んで水を蒸留して飲み水にし、火を起こして明かりと調理に使い、雨の時には排水路を掘ったそうだ。

ある強風の日には、隣の小さなテントが風にあおられてころころと転がっているのを横目に、家族みんなでテントの中に入って飛ばされないように踏ん張った。

夫は客観的に見て、こんな人がいるのかと驚くほど素直で、謙虚で、ズルさがない人なのだが、それは幼少期のキャンプのときに、肌感覚で自分の無力さを学んでいたからなのではないかと感じている。

子供が生まれたら、大自然に連れてって一回鼻を折ってもらおう、と心に決めている。
それで、だいぶいい子に育つ気がするのだ。

自分が自然に触れることで、だいぶいい子になったように。







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