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なぜ研究者は学術書を翻訳すべきなのか?

概要

・学術書の翻訳は学術の、ひいては文化の地盤を固めるため重要である
・学術書の翻訳は部数が出ない(=儲からない)うえに、
 最先端かつ幅広い知識が必要で、専業の翻訳家から敬遠されがち
・だから、研究者の参入が求められる
・しかし、業績としてあまり評価されないので研究者にも敬遠されがち
・しかも、常勤の大学教員は業務、ポスドクは業績稼ぎなどで多忙
・業績として学術書の翻訳出版がもっと評価されれば、研究者も参入しやすい
・それはそれとして、訳者にも(学術的・社会的な)利点はある

【メッセージ】
・研究者がもっと学術書の翻訳に参入すれば、社会全体の利益になる。
・研究者が参入しやすくするために、翻訳を業績としてもっと評価すべき。

ぶっちゃけて言ってしまえば筆者のポジショントークなのだが、同業者への応援歌(けしかけ)でもある。研究者が積極的に学術書を翻訳するようになってほしいと思うし、そうでなければ日本の学術は裾野が広がらず、地盤沈下していくのではないかと危惧している。

はじめに

2年半前、『意識の進化的起源』という本を翻訳出版した。

この仕事はなかなかしんどくて(なにせ350ページほどもある)、終わった直後は「当分、翻訳はやらん」と思った。

しかし「喉元過ぎれば熱さも忘れる」とはよく言ったもので(本訳書の評判が良かったこともあり)、現状いくつか翻訳企画を抱えている(大変は大変だが、だんだん馴れてきた気もする)。

実のところ、(学術書の場合)印税そのものは大した金額にはならない。作業時間を考えれば、コスパは圧倒的に悪い。それなのに、なぜまた翻訳しようと思ったのか。そのあたりの理由を論じたい。

なぜ学術書の翻訳は重要なのか

「原書で読むべき」という正論(?)
専門書なんて大学院生か研究者しか読まないのだから、英語以外の言語で書かれているならいざ知らず、英語で書かれているなら英語のままで読めるはずだし、読むべきだ、という話もある。確かに、もっともらしく聞こえる。だが論文ならともかく、年間で数十冊あるいはそれ以上の学術書を原書で通読している大学院生や研究者は、とくに理系にはどれだけいるだろうか。

一度パラっと読んで(またはそれすらせず)、あとは重要そうなところを都度確認する場合が多くはないだろうか。ゼミで輪読する場合でも、1年で読みきれる文量は限られるし、自分の担当した章以外はそれほど真剣に読まずに済ます院生もかなりいそうだ。

訳書が出ていれば、とくに専門ど真ん中から外れた分野の書籍は、原書より訳書のほうをまず確認する研究者も多いだろう。

翻訳で広がる裾野
また、専門書を読むのは当該分野、近傍分野の大学院生や研究者に限らない。学部生や非専門家(分野違いの研究者も含む)も、原書を読むほどではないが訳が出ているなら読んでみようという読者はそれなりにいるはずだ。

また訳書が出ることで、他書に埋もれていた原書が改めて認知されることもあるだろう。上掲の『意識の進化的起源』も、訳が出ていなかったら知名度はもっと低かったに違いない。

こうした点から、学術書の翻訳によって学術の裾野は大きく広がると言える。

訳語の整備が文化の地盤になる
新しい概念に適切な訳語がつけられることで、その概念の理解度は格段に上がる。少なくとも理解の助けになる。ひいてはそれが、文化という森を潤す恵みの雨となり、文化の根ざす地盤を固める。

たとえば "echolocation" を「エコロケーション」ではなく「反響定位」と訳せば、はじめてこの用語を目にする読者にも意味が伝わりやすい。

「レチノトピー」「エンボディメント」「アウェアネス」などと書いて、ぱっと見で意味がわかる読者はどのくらいいるだろうか(とくに後者ふたつは、何やらアヤシイ響きさえある)。定訳は、それぞれ「網膜位置特異性(網膜部位局在性)」「身体性(身体化)」「気づき」である(はたして「気づき」が良い訳語なのかどうかはさて置き)。

一般論として、カタカナ語のまま通用している外来語も多いが、これはテレビ番組などを通して音として聞く場合にカタカナ語のほうが聞き取りやすい、印象に残りやすいという理由が背景になっている気がする。

また専門家は、専門家どうしの議論ではカタカナ語で話しがちだ。それがジャーゴン(これもカタカナ語の例だ:業界用語の意だが、わけのわからない言葉という否定的なニュアンスがある)となり、分野の敷居を高くしてしまう場合もある。適切な訳語を整備することが、用語を一般にも浸透させ、分野の裾野を広げることにつながるのではないだろうか。

もちろん、訳語として適切でなければ、あらぬ誤解が生まれる。一部の哲学書などでは古めかしい用語や文体が残り、かえって理解を妨げている場合もある(鈴木直『輸入学問の功罪』を参照)。だからこそ、きちんとした訳を施し、時代に応じて改定・洗練させていかなければならない。そこで用語の文脈や意味の広がりをしっかり把握している専門家がまず訳語の整備をする、あるいは新しい訳語を主導的に提案する意義もあるだろう。

まとめ①:翻訳という文化活動
以上のように、こと学術書の翻訳に限っても、訳書が学術の振興や文化の発展に貢献する度合いは非常に高い。

学術書の翻訳の現状

学術書の翻訳は儲からない
学術書の翻訳の文化的・社会的な意義が大きいにもかかわらず、学術書を翻訳出版しようというインセンティブ(これもカタカナ語:動機づけを与える要因)は、専業の翻訳家も研究者もきわめて小さい。

その理由のひとつは、手に入る印税が少ないためだ。ありていに言えば、儲からない。翻訳の場合は原著者側に版権料を支払う関係上、自分で書くよりも印税は一般に低く設定される。部数の見込める一般書(ポピュラーサイエンス寄りの本など)であればそれでもそれなりの額になるだろうが、学術書の場合はそれほどの部数にならない(たくさんの部数を刷ったところで一般書ほど売れない)ので、印税はかなり少なくなるのが実情だ。

部数の少なさは、学術書の値段が高めになってしまう理由でもある。本もある意味では工業製品なので、大量生産するほどコスパは良くなるし、少量生産ならコスパは悪い。学術書にはしばしば「値段が高い」という評価をつけられている本があり、その気持ちもわからんでもないが、ある程度は仕方ないと勘弁してあげてほしいとも思う。

さて見込まれる印税が少ないので、翻訳だけで食べていく必要のある専業の翻訳家は、専門色の濃い学術書を敬遠する。いきおい学術関係の書籍の翻訳は、海外の研究者が一般向けに書いた書籍、つまり「売れそうな本」に的が絞られることになる。こうした本は専門的な内容をあまり掘り下げないことも多く、しかも一般ウケを狙って過激な言い回しをすることもある(無論、そんな本ばかりではないが)。

だがそれは、砂上に見た目だけ立派な楼閣を立てて観客を呼び寄せているようなものではないか?

さらに、専門色の濃い学術書を訳そうと思えば、最先端かつ幅広く深い専門知識が膨大に必要になる。普段から注目度の高い分野であれば、相性ぴったりの専業翻訳家も見つかるだろう。しかし、マイナーな分野、新しい分野、学際性の高い分野の翻訳となると、しっかりした裏付けのないままの訳が出てしまうことも多い(たとえば科学と哲学のあいだの話題を扱うような本にそういった訳書が散見される)。

だからこそ、他に収入源のある研究者が「あまり売れはしないかもしれないけど、学術的に重要な本」を翻訳して、地盤を整備する意義がある。専業の翻訳家とも棲み分けできる。

学術書の翻訳は業績にならない(とくに理系で)
だからと言って、研究者のほうにも学術書を翻訳するインセンティブはそれほどない。上で見たように印税が低いので、あまり小遣い稼ぎにはならないうえに、大した業績にもならないからだ。これは理系でとくに顕著だ。

生物学分野を例に挙げると、業績と言えば何を置いても査読付き国際誌の原著論文(オリジナルな研究論文)である。次に、査読付き国際誌のレビュー(総説)論文や査読付き国内誌の(和文)原著論文、総説論文が続く。

生物学のなかでも分野や状況に応じて多少の違い、順序の前後はあるかもしれない。とはいえ実際にまともな業績として評価されるのは、せいぜいこのあたりまでではないだろうか。

査読なし国内学術誌(または商業誌)の総説、紀要論文、著書などは、「枯れ木も山の賑わい」にはなれど、業績としての重要度は査読付き国際誌の原著論文と比べてはるかに低いと言わざるを得ない。筆者にもこうした業績はすこしあるが、まともに評価された印象はないというのが正直なところだ。学会発表と同じくらいか少し上くらいの重要度、といった程度だろうか。招待講演のほうが評価される気もする。

まして翻訳など、訳者のオリジナルな貢献はほぼない(と見なされる)ため、まともな業績には数えられていないのではないだろうか。業績を評価する側に回ったことがないので、筆者には実情はわからない。しかし実際に業績一覧の様式が決まっているとき、「著訳書」の欄が無いこともしばしばだ。

文系の場合は和文の業績もそれなりに評価されてきたようだが、最近は「理系化」が進んで査読付き国際誌の論文の重要性が上がってきている雰囲気がある。つまり、上記の傾向は激しくなることはあっても、いまのところ緩和される見込みはない。

研究者には翻訳に割ける時間が少ない
さらに研究者は、ここ最近はとくに多忙である。大学教員はさまざまな業務に忙殺されている。そこから翻訳に割く時間を捻出するのは至難の業だ。

また、博士号を取得して何らかの職を得るまでの修行期間にあるポスドクは、まさにその職を得るための業績を積まなければならない。生物系などは特に、生き馬の目を抜くほど過当な国際競争にさらされている。もちろん業績と言えば上述のように査読付き国際誌(しかもなるべくインパクト・ファクターの高い雑誌)の原著論文が第一なので、翻訳などにかまけている時間は常識的には皆無である。

つまり、専門色の濃い学術書を訳そうとする人は、どこを見てもほぼいない。

共訳、監訳なら解決するか?
研究者が一人で翻訳するのが大変なら、複数人で分担するか(共訳)、専業の翻訳家に訳してもらった文章を専門家がチェックする(監訳)という解決策がある。実際、こうした手法はよく採られている。

筆者は単訳しかしていないので実体験の話はできないが、周囲の話や考えうる状況を鑑みると、共訳や監訳であってもさまざまな問題が想定される。

まず言うまでもなく、仕事を分けるなら印税も分けなければならない。共訳なら均等に分ければひとまず良いとしても(当然、共訳する人数に応じて個々人への印税は少なくなる)、監訳の場合が問題だ。専業の翻訳家はそれで食べていかなければならないわけで、分け前が多くなければ仕事にならない。その結果、専門家のほうの分け前は(学術書の場合、ただでさえ少ないのに)もっと少なくなりそうだ。実際のところは知らないし、きっと場合によりけりなのだろうが……。

また、実務上もいろいろありそうだ。

共訳の場合、まず訳語や文体の統一が問題になるだろう。
実のところ、専門用語は原語と訳語をあらかじめ1対1で対応させておけばなんとかなるかもしれない。

だが本当に難しいのは、実は "implication" や "insight"、"commit" といった、日常的に使われる、文脈にごとに訳を変えなければしっくりこない(そして英和辞典にあまり使える訳語が載っていない)語のほうだ。訳者のセンスや気分で訳が変わってしまい、文章全体の雰囲気にどこか統一感が出ない、といった事態になりかねない(単訳でもしばしば起こるので、共訳ならなおさらだ)。読者のほうも割り引いて読んでくれるだろうが、作品としての質を追求するのであれば綿密な調整が必要になりそうだ。

また共訳では、スケジュールの調整も問題になる。人間、何人か集まれば締め切りを守る人と守らない人が出てくる。大抵は守らない人が多い。となると締め切りを守る人は割を食うわけで、軋轢が生まれかねない。実現可能なスケジュールを組んで、着実に計画を進めていかなければ、いつまで経っても訳が出ないことになる。

ちなみに原著者側との版権契約には出版までの年数制限が設けられることが多く、これを過ぎれば追加料金が必要になる場合がある。そもそも、こうした版権契約は前払いなので、出版できなければ訳す側の出版社は丸損になる(訳者の都合で年数制限が伸びた場合、そのぶん印税も減らされるのだろうか……)。

では監訳はどうかと言えば、こちらも訳者と監訳者で密な連携が必要となる。監訳者を立てる場合、訳者のほうに専門知識はあまり期待できないわけだ(期待できるなら監訳者は立てなくていいのだから:監訳者の「ネームバリュー」が目当てならまた話は違うかもしれない)。その状態で「とりあえずひととおり訳してもらって、それをチェックする」方針を採ると、専門知識の不足ゆえに用語や文脈が適切に把握できない場合が出てきそうだ。

こうしたとき往々にして、訳者は「雰囲気で辻褄を合わせ」てしまう。すると、全体としてちぐはぐの、意味不明な文が出来上がる。つまり誤訳となる。

これは実体験である。誤訳というのは、訳文だけ読んでいても大概わかってしまう。文に如実に現れるのだ、恐ろしいことに……(出版前にほとんど直っている……と思いたい)。

さてここから監訳者が訳文を直すとなると一大事である。訳語を置換するだけでは済まないので、大手術が必要になる。自分で訳したほうが楽だったかもと思う羽目になるかもしれない。

こうした事態を避けるためには、
・あらかじめ専門用語の訳語のリストを渡しておく
・入門書などをちゃんと読んで理解しておいてもらう
・疑問点は逐一確認できるよう、
 信頼関係の構築と連絡手段の確保を万全にする
などの対策が必要になるだろう。

以上のとおり、共訳にしても監訳にしても、単訳とは別の意味で大変な仕事になる。繰り返すが、筆者にはどちらの経験もない。上記のリスクを冒すくらいなら、大変でも単訳してしまったほうがいまのところ気楽だ、と判断しているからだ。だから以上は推測に過ぎないのだが、それほど的外れでもないだろう。

まとめ②:で、誰が学術書を訳すのか?
結局、専門色が濃い学術書を訳すのは奇特な人間だけである。それも、いればいいほうで、いなければ砂上の楼閣が乱立することになる。

学術書翻訳の、そして文化の未来のために

翻訳をまともな業績に数える
つまるところ、印税の問題か業績の問題かに対処しなければ、現状この問題は未解決のままだ。専門色の濃い学術書がおしなべて何万冊も売れるようになると信じられる夢想家でもなければ、業績のほうを何とかするしかない。

すなわち、翻訳をしっかり業績に数える以外に、全体的な事態を好転させる方法は他にない。

上で議論したように、専門色の濃い学術書の翻訳では、研究者としての訳者の寄与はかなり大きい。社会的な意義もある。立派に専門知を社会に還元している。そのあたりを鑑みて、(原著論文なみに、とは言わずとも)もう少しまともな業績として数えてはどうだろうか、ということである。

業績評価の基準は(とくに採用人事では)あまり表立って取沙汰されない以上、事態は劇的には変わらないだろう。

しかし業界の雰囲気や個別の事例を通して、次第に「翻訳も業績としてそれなりに評価されるみたいだ」という認識が広がることで、「じゃあ大変かもしれないけど、翻訳してみようか」と思う研究者が増えれば、それだけ学術の底上げになると思う。

ひとまず業績一覧の様式に「著訳書」の項目を追加する程度なら、すぐに始められるのではないだろうか(そもそも様式は自由なほうが良いのだが)。

それでも(若手)研究者が学術書を翻訳する利点

全体的な解決策は脇において、現状であっても個々の研究者が学術書を翻訳する利点は見いだせる。だからこそ筆者も、1冊目で「当分、翻訳はいいや」と思っていたのに、また翻訳をすることにしたのである。理由を挙げてみよう。

①自分の勉強になる
当然と言えば当然だが、翻訳はさまざまな面で勉強になる。
まず個別の知識が増える。単純に知らなかった研究や文献を把握できる。
また他者の視点から学問分野を俯瞰することで、多角的な理解が得られる。

もちろん英語の勉強にもなる。
以前の記事でも書いたように(下記リンク)、原語に由来する「クセ」や「トリック」にも気づきやすくなる。

逆に、日本語を母語とするからこその混乱も、改めて見つめ直す機会にもなる。

そして(まともな学術書であれば)全体でひとつの結論に向かっていくので、大きな枠組みのなかで論理を組み立てる方法や議論の進め方を体得できる。

②学術ニッチ構築
「このテーマなら(国内では)この人」と認識される(かもしれない)。少なくとも "visibility"(≒認知度)は上がる。

筆者も『意識の進化的起源』を翻訳したおかげで講演に招待してもらった学会や誘ってもらった研究会などがある。

そうした活動を通して、とくに新しい分野の翻訳であれば、一分野としての地位をしっかり確立させる助けにもなるだろう。

たとえば進化発生学(Evo-Devo)が国内での地位を確立し、いまでは世界でも指折りに研究がさかんな分野となったのには、ブライアン・ホール『進化発生学』(邦訳2001年)やショーン・キャロル『DNAから解き明かされる形づくりと進化の不思議』(邦訳2003年)、同著者『シマウマの縞 蝶の模様』(邦訳2007年)と、関連書が剛柔織り交ぜ相次いで邦訳されたことが大きかったのではなかろうか。

また、上掲書のなかでも随一に「剛」の学術書である『進化発生学』が最初に出版された事実も、「新しい分野で学術的に重要な本を翻訳して、地盤を整備する」意義を如実にあらわしているように思える。

③自分の研究の発展につながる
上のふたつの点とも関係するが、翻訳を通して自分の研究を見つめ直し、新たな方向性が広がる(かもしれない)。個々の研究ネタから、3〜5年間くらいの研究テーマ、中長期的な研究目標まで。

実際に筆者も翻訳を通して、論文のアイディアや、今後の研究の方向性を決めるテーマが得られた。

以上、①〜③のとおり、直接的な業績にはならなくても、間接的にはちゃんと業績につながっている。つまり翻訳は、研究者個人にとっても学術的意義がある。それだけではなく、次のような社会的意義もある。

④キャリアパスの選択肢が広がる
学術書の翻訳をしていくうちに、出版業界で評価されれば、副業、あるいは専業の翻訳家として、はたまたサイエンスライターとして転身できる(かもしれない)。あるいはコツコツ続けていけば、定年後、早期退職後の仕事になる(かもしれない)。

商業出版では、個人の研究記のような本なら若手理系でも書かせてもらえる機会は(分野によっては)ままある。しかし研究テーマそのものに関する本をいきなりポスドク前後の若手研究者に書かせようという大胆な編集者は(また、書こうとする若手研究者も)、なかなかいないのではなかろうか。翻訳なら内容の質はとりあえず保証されるので、商業出版は初めてだという若手研究者でも任せやすい。

いずれにしても将来のことは誰も正確に予想できないので、広い視野でいろいろな選択肢を見据えておいたほうがいいだろう。

とにかく(若手の)研究者は、「これぞ!」という本があったら翻訳を検討してみてほしいと思う。もちろん、そうそう気軽にできるものでもないし、するのはいかがなものかと考える向きもあるだろう。

しかし研究者による学術書の翻訳出版は、文系ではそこそこ例があるが、理系はかなり少ない。出版業界としても、名著や名訳者の原石を探し求めているはずだ。

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『意識の神秘を暴く:脳と心の生命史』という訳書が出ます。

『意識の進化的起源』の原著者たちが、当該書の内容を一般向けに解説した本です。砂上の楼閣ではなく、しっかりと地盤固めされていますので、ぜひご覧ください。できれば『意識の進化的起源』のほうも!

追記

Togetterで2014年に同様の議論があったのを見つけた。状況は基本的に変わっていない。




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