完璧じゃない子育ても許されることを願って。
自己肯定感が高いと自負していたわたしですが、子どもを産んでから自己肯定感が削られる感覚があります。
その理由は、2つあって。
1つ目は、子どもが少しでも枠からはみ出すと責めらているように感じること。2つ目は、理想の親像から少しでもはみ出すと「かわいそう」な目で見られること。
今日のnoteは、日本の子育てと『崖の上のポニョ』の子育てとアフリカの子育てについて、見たこと、感じたこと、読んだことをまじえながら、つらつらと書いてみたいと思います。
ママが背負いこむプレッシャー
社会ではいわゆる優等生タイプのよくできた子でない限り、あなたの子育てがちゃんとしてないからじゃないか?という目で見られているように感じます。
評価の目でギロギロ見られているように感じるのは、かなりのプレッシャーになると感じた出来事がありました。
先日、図書館に行ったとき、息子は図書館でテンションが上がってしまい、気になった本のところまでおそらく2m〜3mほどの距離を小走りで近づきました。
すると、夫もいたというのに、司書さんは真っ先にわたしの方を見て「危ないので、気をつけてください」と言ったのです。
確かに図書館で走るのは危ないことですが、子どもに求める行動も、親に求めるしつけも、完璧を求められているように感じました。(人それぞれの感覚にはなるけれど、わたしには注意するレベルではなかった)
そんな息が詰まるような子育てをする中、観た『崖の上のポニョ』。
登場人物に出てくる4歳のそうすけは、ちょうど息子と同年代です。子育てがとっても自由で、社会で子どもを育てているように感じられて、心からいいなぁ〜と思いました。
働きながら子育てをしているにも関わらず、子どもも親ものびのびと過ごしています。こうあるべきことに縛られず、小さなことは気にしないで、親も子も自立しているのです。
自己肯定感が下がり続ける負のループ
社会で子育てできるとお母さんの自己肯定感は、こんなにも下がることはないのではないかと思う今日この頃。
先日読んだ鈴木洋平さんのnoteで、この考えはさらに確信に近づきました。
今朝の保育園での話。
焦っているお母さんと泣きそうになっている年少の女の子と自由に歩いていってしまう1歳くらいの男の子と登園の時間が重なりました。
「先に行って準備しているね!」と焦っているお母さんは、先に行ってしまい、女の子は寂しそう。
泣きそうになっていたら、園長先生が出てきて、女の子に「靴をしまおうか」と一緒に手伝ってくれていました。
あぁ、よかったと内心ホッとしていると、帰り際園長先生がお母さんに声をかけているところを見て、心がざわつきます。
何を話しているかはわかりませんでしたが、お母さんが「すみません」と言っていたのはわかりました。
子どもを優しく見守ってあげられたらどんなにいいことかは、お母さん自身が1番わかっていることだと思います。そうしたい気持ちがどんなにあることか。
時間も余裕もない子育てをしながら頑張っていたあのお母さんは、きっと今ごろ自分を責めているかもしれません。
子育てをするようになった今、社会で子どもを見守ってくれる環境にどれだけ救われるかは計り知れません。(せめて、保育園くらいはお母さんの味方でいてほしかった)
子どももママも泣いている子育てが、少しでも明るくなったらいいなと思うばかりです。
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