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並行世界には行けなかったが、電気が止まったことによってレベルアップした件

仕事が終わり、家に帰った私はいつものように照明のスイッチに手をかけた。

「あれ」

しかし、待てどもどうして部屋は明るくならない。指の角度を変え、再度スイッチを押し込んでみる。やはり、点かない。暗闇の中、黙考していると、頭の上で豆電球がぴかりと光った。

電気が止められた……。

私はその場で目を瞑り、電気が止まっていない世界線への移動を試みた。この技を試みるのは、中学以来だ。
当時は寝坊して、遅刻を回避するために試みたが失敗した。だが、私ももう大人だ。あの時とは比べ物にならないほど成長している。

きっと成功するはず。目を瞑ると、暗闇の中、光の残像の道をたどって走っていく。すると、暗闇の中で小窓のような穴が空いていた。そこから光が漏れ出ている。私はすぐさまその穴に飛び込もうとした。たが、分厚い両手が私の身体を押し返した。顔を挙げると、穴の向こうには自分と瓜二つの姿をした男がいた。彼はニヒルな笑みを浮かべながら、そっと小窓を閉めた。

「はっ!」

刹那、私は勢いよく目を開けた。眼前は変わらず暗闇。そこで並行世界への移動が失敗したことを理解した。もう少しだったのに。もう少し大人になれば、成功するのだろうか。

さて、一人暮らしを始めて6年目になるが、これまで電気を止められたことはなかった。では、なぜ今回止められてしまったのか。思い当たる節はありありだった。

そう。電気料金を払ってなかったからだ。金銭的に払えなかったわけではなく、完全に頭から抜けていた。毎月ポストに届く封筒を部屋の片隅に置き、埃がかぶってきた頃には、緑と赤の葉書が投函されている。この禍々しい色合いの紙には、「〇〇日までに支払わないと電気を停止する」と書かれている。

これまでは払込票が届くたびにしっかりとコンビニに行って支払っていた。だが、最近の私は仕事に追われ、光熱費支払いにかける情熱の灯りが消えてしまっている状態だった。

「そりゃ止められるか」

電気が止まるというのは、テレビなどで芸能人の苦労時代の体験として語られることが多い。しかし、画面を通してしか聞いたことがない出来事に対して、他人事のように感じていた。身近にありすぎる「電気」がこうも簡単にあっさりと止まってしまうとは思ってもいなかったのだ。

しかも、電気だけではない。ガスも一緒のプランなので、お湯も出ない。幸い水道は止まっていなかったので、水は出た。だが、社会人たるもの、ここで慌ててしまってはいけない。私はクールになることに努めた。

「お湯が出ないなら、水でいいじゃないか」

冷静ではなかった。興奮状態で身体は熱く火照っていたので、そのときは冷水はむしろ都合がいいとさえ思った。

しかし、春先の夜はまだまだ冬の名残を感じさせる。冷水のシャワーは想像以上に冷たかった。身震いすると同時に、その冷たさが「生きている」ということなのだと悟ったような気になったりもした。

電気が止まった翌日は春分の日だった。よって、電気会社には電話が繋がらない。春分の日は真っ暗な部屋で過ごすことが確定した。

春を象徴するような華やかな日を私は薄暗い部屋で過ごしていた。しかし、電気が止まったことで色々な発見があったのも事実だ。

電気が止まったなら、電池式の照明を使えばいいじゃないかと再び頭の上で豆電球が光った。

ここで役に立ったのが、頭につける小型ライトだった。高校のキャンプ以来、押し入れに息を潜めていたものが意外な形で重宝した。トイレに行く時なんかは本当にこいつに助けられた。

これで電気問題は解決。続いては風呂問題だ。ガスが止まっているので、当然お湯は出ない。そこで私は近所の銭湯に行くことにした。生憎大変混んでいたので、湯船には浸からずシャワーだけで済ませてその場を後にした。せめてコーヒー牛乳は飲んでおけばよかった。

こうして何とか風呂問題も解決。電気が止まって感じたのは、案外何とかなるというものだ。これは新たな発見だった。しかし、電気が止められた時の心細さを私は一生忘れないだろう。

この経験を経て、私はレベル1からレベル2へと力をつけた。しかし、悪の大魔王が住む暗黒の谷へ挑むにはまだまだ足りない。武器職人のデニルさんからも「レベル3以下にこの剣はまだ早い」と言われてしまう始末だ。

「オレの冒険はまだまだこれからだ」

未納だった分の電気料金を払い終えた私は、翌日の昼休みに電気会社に電話をかけた。公園で、「電気の再開をお願いします」と切実に訴えかけた。春風に乗せられ、私の声は電波を通してだけではなく、電話口のお兄さんの耳にも直接届いたに違いない。

電話口から「次からは忘れずにお支払いくださいね」というようなことを言われた。私は「はい」と屈託なく答えた。

それから数日後、新しい払込票が入れられた封筒が届いた。期限はしばらく先だからまだ大丈夫だろう。あ、そうそう、もうすぐ近所に住む黒ヤギさんがくるんだった。おもてなしの準備をしてなくては。あー部屋が散らかってる。まあ、電気料金の封筒は片付けなくてもいいか。

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