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私の死生観

こんにちは、これが435本目の記事となったすうじょうです。今日は、新年入って初めての通常記事ですが、私の死生観について話してみたいと思います。

自分はまだ20代と世間的には若いですが、3年前に脳腫瘍で緊急入院し、手術で取り除きました。そのときは、本当に危なかったですが、なんとか助かり特に後遺症なく、現在は問題なく生活できています。この経緯は、以下にある過去のnoteで書いています。(さらに詳しい話はそのうち書きます)

そんななか、手術後の退院までの間、少し時間があり、色々なことを考え家族とも話をしました。そして、退院後のこの3年の間になんとなくではありますが、私なりの死生観について固まってきたので話したいと思います。

ここで大事になってくるのが、私の人生における意思決定の方針です。詳しくは、以下の記事で書いています。

この記事で書いている方針を改めて書くと、以下になります。

①情報は多い方が得
②相手によって適切に対応を変える
③自分なりの基準を基に要旨(まとめ)を作っていく

誤解を生むかもしれませんが、詳しくは上の記事で説明しています。

私は、すごい人に比べると、負けると思いますが知識にまあまあ貪欲です。たまにふとしたきっかけで、知らない世界に飛び込みます。例えば、最近だと、ボカロライブの動画を見ていたとき、関連で登場したアニソンランダムダンスを見て、オタ芸のダンスの世界を知り、色々な動画を見ました。また、大学受験が終わっても、受験関連の動画や参考書紹介の動画は見ています。学歴厨というわけではなく、新しい参考書を知りたいという欲で見ています。

話を戻すと、死生観に関係することでいうと、脳腫瘍の詳しい病状などについて入院時、医師から詳しい話を自分は聞いておらず、家族しか聞いていませんでした。そして、家族との会話で明確に発言したのは、「自分の病状についての情報は知っておきたいから、包み隠さずすべて話してほしい」ということです。ここらへんは、人によって意見が分かれると思います。ただ、私は自分のことについて知ることができる状態であるのにもかかわらず、知らないというのが嫌だったのです。そして、脳腫瘍の種類やグレード、手術の経緯、今後の話などをすべて聞きメモをしました。この考えは一生変わらないと思います。そのとき家族とも話しましたが、余命宣告があるならそれも事前に聞いておきたいです。それまでにやりたいことをリスト化して、それを消費していきたいからです。(一応書いておきますが、今のところ余命宣告のような事態にはなっていません)

そして、現在までで固まった死生観としては、私は毎日趣味(Youtube、アニメ、読書、塾のバイトなど)に一定の時間を費やして、毎日新しい情報を手に入れ、毎日が満足できる日にしたいというものです。刹那的な楽しみを追求し毎日を過ごしていくというものです。一方で、将来に向かって積み上げたものを残したいという欲もあります。そこで、書いているのがこのnoteです。特に数学の記事などが顕著で、自分が満足できるクオリティの記事を書くことをモットーにして書いています。私の座右の銘である「塵も積もれば山となる」の精神で、少しずつ書き続けています。そして、それらの生活の途中で命が尽きてもいいという精神で過ごしています。ただ、それでも残る後悔は未来に登場する未知の技術・世界を知ることができなかったということです。できることなら、不老不死になってでも、未来を知りたいという強い欲があります。

もう少し死生観を深く考えてみると、私は人生というのは一方通行の線路のようなものでとらえています。人生のレールが敷かれているという考えではなくて、私の考える線路には無数の分岐があって、それが人生の選択だと考えています。違う分岐を選べば、パラレルワールドの自分がいるという感覚です。これは小中学生のころに考えていた話です。

そして、私個人の人生というのは、高度なシミュレータ上で私というアバターを主人公にして世界で遊んでいるという感覚で過ごしています。私が見えていない部分はメモリ節約のために近くに行くまで描写されていないのではないかと、たまに思ったりします。マイクラのワールドをイメージすると分かりやすいかもしれません。また、人生の意味については、あまり考えていません。社会に大きな影響をできたらいいなと少し思うくらいです。自分の人生の意味をあえて書くなら、自分の知的探求心を満たせたことになります、

私は特に何かを信仰していませんが、死後については、天国と地獄があるというのは私の性に合いません。ただ、天国があるというのなら行ってみたいです。どちらかというと、死ぬと幽霊になるという考えの方が自分の性に合います。未来を知りたいという欲が関係しているかもしれません。それでいうと、この世界で記憶を持ったまま、人間に転生できるならそうしたいです。もし異世界転生できるというなら、冒険者でも貴族でもなく、全知全能の神になりたいです。一方で、死の先は無だという考え方も、自分というアバターが消えるという感覚で受け入れられます。

これらに原点となっているのが、意思決定の方針(特に1番目と3番目)です。そう考えると、この方針を言語化した中学生のときに、私という人間のアイデンティティはできあがっていたといえるかもしれません。また、ここまでの話をまとめると、自分は人生を世界のシミュレーションゲームを遊んでいると考えていることに気づきました。シミュレーション仮説で人生を考えているという感じですね。

ここまで、少し長かったですが、私の死生観などを書きました。もともと、決めていた人生の方針が、脳腫瘍の経験をきっかけにしてより固まった感じです。死生観がある程度はっきりすると、毎日生きていくうえでの時間の使い方も決まってきます。みなさんも健康に気を付けて、元気にお過ごしください。では。


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