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子どもの私「ヨビステって何?」

こんにちは、すうじょうです。さて、今回はエッセイのようなものを初めて書くのに挑戦?してみたいと思います。目的は、私の経験と考え方を伝えるためで、これからも自由に書いていく予定です。今回は記念すべき1回目(自分で書いてなんだけど、初めてだったら何でも記念というのはどうかと思う)です。

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これは、私が幼稚園に通っていたころの話。今の私は特に何かを信じているわけではないけど、そこは、仏教系の私立幼稚園だった。子どものすうじょうは、このころは(人生の中で)比較的活発な時期だった。ただ、今につながる真面目さも備えていた。先生に怒られないようにしなきゃ。ほめられるようにしよう。子どもながらにそんなことを考えながら、毎日お迎えのバスに乗って幼稚園に向かっていた。真面目だったからか分からないけど、給食の献立を書くボードにほぼ毎日自主的に献立とその栄養分け(赤・緑・黄)を壁に貼られたプリントを見ながら書いていた。そんなころの話。

ある日、季節がいつだったかも何歳のときだったかも覚えていないけど、その出来事ははっきりと「あった」と覚えている。小さなトラウマと言えるかもしれない。当時の私は、子どもながらに自由にお話ししていたと思う。幼稚園から帰るバスに乗る前の玄関でのことです。先生が私にこう注意しました。(記憶があいまいなのでセリフの文言は多少違ったかもしれません)

先生「すうじょうさん、呼び捨てはダメだよ」
(もちろん、すうじょうの部分は、本当は私の名字です)

当時の私は、子どもなので「呼び捨て」という言葉が頭の辞書になかった。だから、正直何を注意されたのか分からなかった。きっと、ヨビステという風に聞こえたに違いない。(字面が少しナマステに似てる)他の子ならば、全然気にしなかったのかもしれない。しかし、注意を受けたのは間違いなく私だった。当時の私は、子どもにしては真面目だった。先生に怒られないようにしなきゃという一種のポリシーのようなものを持っていた。私は、反省した。ヨビステが何か分からないけど、今度からしないようにしなきゃと思った。そして、その記憶は幼い私に深く残った。現にこれを書いている今も覚えているのだから。

結局、ヨビステという言葉の意味は分からなかったけど、親に聞かなかった。知らないと告白することが、少し恥ずかしかったからかもしれない。意味が分かったと思った時のことは今でも覚えている。それは、小学生の時のこと。その頃の私は、呼び捨ての意味を知っていた。けれど、幼稚園のころのその記憶の存在を一時的に忘れていた。きっと、今が楽しかったからだろう。突然、昼休みか中休みかに運動場に遊びに行っていたとき、運動場のすぐ手前でだった。ふと、幼稚園のときのあの記憶のヨビステって呼び捨てのことだったんだということに気付いた。だからなんだという話だが、小学生の私はそっかと思った。

この経験の影響かどうかは定かではないけれど、私は大学までずっと人の名前を呼ぶときは必ず「名字+さん(女性)orくん(男性)」と呼んでいた。他の人は、下の名前で呼んでいたけれど、私は頑なにそう呼んでいた。愛称、ニックネームがある子も例外ではなかった。中学・高校ではみんなは私のことを愛称で呼ぶけれど、私の方は変に真面目に敬称付けで名前を呼んでいた。失礼な呼び捨てというのは、名字だけを呼ぶもののことで、名前だけを呼ぶのは別に構わないなんていうことは、その歳の私は当然知っていたし、理解していた。本当はみんなと同じように親しげに名前を呼んでみたかった。けど、できなかった。ずっと続けていることを突然やめるのは難しかったから。

今この経験自体を改めて思い返してみると、先生にも非がある主張してもいいと思う。もちろん、意味を聞き返さなかった私にも非はある。(と、いっても当時の私にそんな勇気はなかったけれど)幼稚園や小学校低学年を担当する先生たちは、難しい言葉ではなく、できるだけ簡単な言葉を使うように心がけてほしい。そうすれば、私のように深く記憶に残り続ける人が少しでも減ると思う。例えば、こんなふうに。

先生「すうじょうくん、人の名前をくんやさん付けせずに呼んだらダメだよ」

もちろん、これは難しいことだと思う。子どもによって知っている語彙は違うから。けれど、できるだけ熟語やことわざなどを避けたりするなどの工夫はしてほしいと思う。すでにしている人もいると思うけれど、これはとても大切なことだと思う。子どもの頃のトラウマはその後の人生を大きく変えてしまうことも少なくないはず。それをなくしてくれるとまでは言えないけれど、少なくしてくれることは間違いない。現に私がそうだったのだから。ただ、先生が呼び捨てといわずに丁寧に注意していた場合、私の人生はどうなったのかは分からない。それは、ifルートで、ここにいる私は経験していないのだから。もしかしたら、まったくと言っていいほど変わらなかった(呼び捨てはしないまま)のかもしれないけれど、少なくとも意味が分からず注意されたというトラウマはないはず。

--------------------------------------------------------------------------------------以上、私の心に刺さっている記憶の紹介とそこから伝えたいことでした。では。

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