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文章全てを精読している私

こんにちは、毎日投稿70日目のすうじょうです。さて、今回は以前から数回ですが、書いたnoteの中で私がしている、非効率的な文章の読み方を話しました。しかし、そこについて集中して話したことは一度もないと思うので、今回は焦点をそこに絞って話していきます。

私は、普段本やネット小説、noteなどで文章を読んでいます。頻繁に本を読む人には負けますが、比較的、文章は読むほうの人だと思います。noteでは、現在主にエッセイ、解説記事などを読んでいます。最近は、エッセイがかなり多めですね。まあ、全て読んだものに関しては、基本的にスキをしていて、公開しているので誰でも確認することができる状態になっています。

それらを読むときに、流し読みや飛ばし読みをせずに毎回頭の中で場面を想像しながら全文を精読しています。これは、国語や英語の長文においても同じ傾向で取り組んでおり、時間を無駄に?使ってしまっていることが多々あったかもしれません。まあ、方針として、傍線部が来たら問題に飛ぶスタイルでやってきたので、そこまでの時間ロスはなかったと思います。

頭で想像すると言っても抽象的すぎるので、ここではもう少し細かく話します。ちなみに想像しづらい抽象的な文章や科学系のものはあまり想像せずに、地の文のまま解釈していると思います。ただ、その他のエッセイ、随筆、小説、マンガなどにおいては、主人公あるいは主観の人と視点を共有しながら物語を体験していると言えばいいのでしょうか。そういった感じに読んでいます。

検証したことがないので分かりませんが、少し読み進めるのが他の人に比べて遅いかもしれません。視点を共有というのは、自分がその状況に置かれているとして、そして主人公などの行動どおりの行動を想像し、物語の主人公に頭の中でなりきっているということですね。

このときに、言っておきたいことはこの方法において、言動に共感できなくて嫌になったり、意味が分からないとなることは基本ありません。そういった批判の目は持っておらず、ただ書かれた通りの指示に従うので、そのような事態は起きません。嫌になるときは、主人公の周りで変化した環境が悲観的・絶望的な場合、共感して思うことがあるくらいですかね。例えば、価値観が自分とは違ってもそういう世界やそういう考え方の人だと割り切っています。エッセイでは、価値観が異なることが多々起きますが、ここでも同様にして特に問題なく読み進められます。このようにあくまで、なりきっているので、齟齬や解釈不一致は起きません。なので、世の中の多くの人はなぜ物語を批判してばかりで、物語を体験し楽しまないのだろうかと思う今日この頃です。

ちなみに、三人称視点で書かれていた場合は三人称のまま物語を客観的に体験していると思います。国語の小説の問題でもこういったことをしていたらそれらしい誤答に引っかかるということがありそうですが、そこはしっかりと考えて解くことにして避けています。センター試験本番でも小説は高得点でした。

また、2回目以降に読む場合は好きな部分だけ読んで、ある程度設定や境遇を思い出したうえで、部分的に再体験します。2回目以降でも新鮮な気持ちといったらおかしいですが、先の展開を知っているのですが、知らない主人公の体で物語を体験していきます。少し不思議に思われるかもしれませんが、おおよそ頭の中を整理するとそういう風に読んでいるという事実をここまで文字に書き起こしています。

ちなみに、noteをたくさん読んでいった結果として、自身のnoteの書き方が当初からかなり読みやすく変わったのではないかなと思います。多くのエッセイを読んだ経験を生かして自分のエッセイのようなものを書いています。

今回は、このテーマについて自己整理してまとめて書いておきたかったことについて書けたので良かったです。もちろん、文章の読み方はみんなちがってみんないいと思っているので、あくまで私の場合を話したまでです。では。

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