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『エレファントカシマシ5』歌詞考 -思え 曙光の時を!!-


はじめに

「悲しみの果て」「今宵の月のように」「俺たちの明日」など数々の大ヒット曲を有するエレファントカシマシは、間違いなく日本のロック史におけるひとつの金字塔である。

現在ボーカルの宮本浩次は自身のソロ活動にも力を入れて活動しており、その人気はいよいよ高まるばかりである。

年月は浅いながらも、私はエレファントカシマシのファンである。
その魅力については語るまでもないであろうから、あえてここでは記さない。人気作の多い彼らだが、一方で初期の作品は、現在のいわゆるエレカシのイメージとは全く異なるものであることもご存知のことかと思う。いわゆるエピック期の作品である。

そんな彼らの数あるアルバムのうち、本稿では第5作目『エレファントカシマシ5』について記したい。特に宮本浩次の歌詞について、しかもなるべく筆者の偏愛の独断と偏見によって、である。

エレファントカシマシ5、ひいてはエレファントカシマシについての有用な記事があるので、こちらにもぜひ目を通して頂きたい。


偏愛の独断と偏見によって、と言ったのは文字通りの意味である。以下たびたび宮本浩次及び歌詞への考察的言及をしているが、とくに根拠もない意見であることはご承知いただきたい。正確な時代的考証や当アルバムの実際の情報などに関しても、書籍や記事で各自ご参照いただきたい。
本論はあくまでも、一人間の感想である。その感動を共有したくここに記すまでである。



「過ぎゆく日々」

- いかり、喜び、死にゆくのか。俺は。

笑顔もてやさしげに この俺は言葉をかけた。
ひからびた情熱は、ただ過ぎるくらしの中へ消えた。
涙もて目を上げた。この俺は高きを見つめ、
うちふりし情熱は、ただ過ぎるくらしの中へ消えた。

https://www.uta-net.com/song/57052/

前作『生活』においても、宮本は偶成」「遁世という合わせて20分程にも及ぶ苦しい曲を書いた。その第4作目から2年もの月日を経ながら、この『エレファントカシマシ5』ではそのメロディと詩の陰鬱さをそのまま引き継いでいる。

うちすぎるくらしの中俺は日々過ごした。
過ぎる日々よ、教えてくれよ。この俺にも生活をどうか。
教えてくれよ。
おれには待ちのぞむ日々のありしことを。
さあ、待ちのぞむ人があると。希望ありしことを。

https://www.uta-net.com/song/57052/

宮本はひたすら、生活における無常感のやるせなさをこちらへ投げかける。生活の欠如ともいえるこの感覚を、吐露し、渇望しているかのように見える。

序曲において繰り返される”過ぎるくらし” ”過ぎゆく日々”という言葉は、このアルバムを通してひとつのテーマとなっており、おそらくそれがこのアルバムのコンセプトである。第1作目収録の「やさしさ」にもみられた、メロディアスで悲しい世界を見事にコンセプトとして掬い上げ、終始成功している。以降の曲においても彼はひたすらに訴え続ける。

とくに初期のアルバムにおいて、宮本はしばしば古語のような言い回しを使用する。その拙さとポーズを感じながらも、その上で光る感受性と情熱は別格である。

酒を飲んだ。本を読み散らした。
過ぎゆく日々を俺は過ごしゆくために。
過ぎゆく日々に君は何をしてるだろうか。

https://www.uta-net.com/song/57052/

宮本はこの曲の最後で、君という人物に思いを馳せる。
実際、当作の制作期間に宮本は恋愛の破局を経験したようである。過ぎゆく日々というテーマの裏には恋人との別れという宮本の悲劇的状況が存在し、それはこのアルバムの根幹をなしている。酒を飲んだ本を読み散らしたというのは、宮本自身の生活そのものだったであろう。紛れもない彼の実生活のことである。そんな時期の彼の苦悩の結晶が見事にこのアルバムとして表現され、保存されている。

「シャララ」

- 常識と共に俺は心中するつもりだ。

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