【中国日誌】1100日目 24.8.28

私たちの社会的な位置付け。現状は、一般人、人々、民衆、海外出向者、非住居者、平民、そういった、位置付けなのだろう。これに満足しているとは言えない。現状に満足できないことが、不幸の、始まりかもしれない。ただ、満足して、何の変化をせずに、ただ、平凡に、ただ、怠惰に、暇つぶしを、したいとは、思わない。ゆえに、現状に、満足したいとは思わないし、するべきだとも思えない。満足してしまえば、そこからが、後悔の始まりのように、感じる。私たちは、底知れぬ、到達することのできぬ、目的地を、ひたすら、無我夢中で、目指したいのである。幸せを味わい続けるのも、一興かもしれないが、それは、方向性が、違うのである。私たちは、安定、不変、停滞、を望まない。常に、膨張し続けたいのである。膨張し続けるためには、常に、コンフォートゾーンの外を、目指さなければならない。よって、現在の、社会的位置づけが、一定であり続けることを、望んではいない。では、どういった、位置づけを、望むのか。権力者か、成功者か、インフルエンサーか、知識人か、クリエイターか。世界観の創造が、個人的な、人生の、目的であるのだから、社会的位置づけも、それに、関連した、クリエイターを、選ぶのが、望ましい、気がする。しかし、個人と社会の間で、コントラストを出すために、あえて、社会的位置にクリエイターではない、ものを、選ぶのも、悪くはないように、思える。今は、理性の、話。なら、私たちの心は、何を欲しているのか。社会的な承認か、社会への所属感か、社会から必要とされることか、社会的に価値のある個人として見られたいのか。社会から、特殊な、希少な、個人として、区別されたいのか。社会から、特別扱いされたいのか。社会から私たちを、一人間として認識されたいのか。認識されたいのか。認識されたいのか。ここら辺の言葉が、心が欲している、ような反応を、示している。私たちは、認識されたいのかもしれない。人目につきたくないのに、社会から認識されたい、認められたい。では、どうすればいいのか。それは、また、後日考えることにしよう。有意義な時間に、感謝を。

朝4時に起き支度と日課。8時に出社。18時に退社。ご飯食べて、音楽聞いて、21時半過ぎに寝た。

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