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# 22 悩める人間

良心とはなんぞや?ロシアやイスラエルのしている事を見ると、叫びたくなる。
良心を辞書でひくと、
人が内心において、倫理的な非理を判断する基準、価値観、倫理観。
尚、日本国憲法第19条には思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

ドストエフスキーの小説、罪と罰、主人公のラスコーリニコフという貧乏学生は自分がナポレオンのような「選ばれた」天才だ 思い込み、自分にはくだらない他人を殺すことも 許されるという考えにとりつかれ、金貸しの老婆を殺害してしまう。 しかし、殺人の後で、激しい苦しみに陥り、ついに自首してシベリアへの懲役刑 に服する。
「罰は罪と同じして生まる」と古来から言われてきた。この小説の主人公は殺人の後に、考えてもいなかった良心の呵責に襲われた。まさに、ローマ時代から伝わるこの格言通りにストーリーは展開する。

このような良心もあろうが、果たしてそれ程に全ての人間を内から制御しているものであろうか?
学生運動の盛んなりし頃を経験した私たち。実存主義者などの意見も交錯している。「純粋にマルクス主義を信奉している知識層と、生活の為にそれを受け入れている層がある」という事実は頭でっかちで、理屈だけの学生運動の限界を見せつけてしまった。彼らには生活の為に自転車操業する国民生活をカバーする説得力に欠けていた。
「生活の為に」と言う言葉には良心も理念も及ばないハードルが存在する。
個人の良心から「罰は罪に踵を接して来たる」と言うギリシャ時代のプラトンの世界観は、良心が擦り切れている様な現代社会では通用しないのかもしれない?
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」石川五右衛門の辞世と伝えられる歌である。これは人間は元々、良心を持ち合わせていない人がいるのだ、とプラトン哲学を真っ向から否定している様にも思える。

日本国憲法第19条は『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない』と述べている。
通常はザックリとした表現の自由で十分であるが,その表現に至る前の思想形成にまで憲法上の保障を明らかにして おかなければ,自由が実現しないと考ている。 これは戦前、戦中の思想統制を経て熟成してきたものの様だ。ここにも日本国憲法の真骨頂があると考える。

あれこれ考えると、憲法19条には存在感を感じる。

当然のことであるが、これが現在のカオスと直面すると、物議を醸す。
精神的自由に関するほんの小さな 制限であっても,絶対的な保障を導く19条論が 検討されるべきであると言う原理主義のような立場もある。しかし,国歌起立斉唱 拒否事件以降の判決の多くは,その正当性が形式的なものとなり,最高裁と全く同様 の文言を繰り返し,国家起立斉唱の職務命令を合憲とする結論 を下すものが多い。この様な19条との論争、ぶつかり合いは社会が複雑化すればするほどに多岐に渡ると思う。

と言うことは、19条はプラトン哲学ではイデアの世界にあるのかもしれないのだが、ある意味で極論なのか?
他の極論とぶつかり合いながら中庸を模索して行くのだが、その過程で、日本社会の民主化は推し進めら、育てられて行くのだろう。
私は必要なものと考える。

良心を考えてきたが、それは極論の範疇に位置すると言う考えに到達してしまった。同時に、日本はイデアというか、人間の理想を常に目指す国家であると言う事もわかって来た。私も書きながら、意外な展開になったと思っている。


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